九谷庄三(工房) 彩色金襴手禽獣山水図大鉢

作品の解説

この作品には九谷庄三が江戸末期に開発した“彩色金襴手”(赤ではなく、さまざまな中間色で描かれた図案の上に金で細い輪郭線を描く様式)によって、禽獣図、花鳥図、山水図などの金泥を焼き付ける図案が全面に描かれています。この画風は「庄三風」と称され、明治九谷の代表的な画風となりました。「庄三風」の作品は明治前半に九谷庄三自身により制作され、また庄三工房から量産されました。

サイズ 径 約31cm 高さ 約9.2cm

見込みには庄三の代表的な図案であった禽獣図が“彩色金襴手”で彩色されています。庄三は農村の風景を好んだといわれ、この作品では、がっしりしていて力強そうな雄鶏が農家の庭先にいる、当時の日本の農村でよく見られた情景が大鉢の中心に描かれています。

 

 

その一方で、明治初めに見られた、きまりきったような中国風の山水図、人物図も描かれています。興味を引く図案が、文人たちがいる部屋の窓から見える山水図が、左の割取に描かれた山水図から取りこんだような図案となっていることです。

 

 

 

裏面には4か所に大きな花が描かれ、緑の裏面は庄三がよく使った黒呉須で描いた花の文様で埋め尽くされています。

 

 

 

 

庄三の名声が高まるにつれ、庄三の銘にはいわゆるブランドの意味が込められていました。当然、自ら制作したことを表す一行書きの銘「九谷庄三」もありますが、それは希少であって、大部分は工房の製品であったことを表す二行書きの銘「九谷/庄三」であるといわれます。それでも、この銘のある製品は“九谷庄三(工房)が制作したもの”と見なされたといわれます。

作品の制作者

九谷庄三

九谷庄三は、文化13年(1816)、能美郡寺井村の農業茶屋(農村にある食べ処)の子として生まれました。幼名は「庄七」といい、「庄三」と改めたのは1848ー1854年頃で、さらに「九谷」姓を名のるようになったのは明治に入ってからと考えられます。

九谷庄三は、幼くして、能美郡のいくつかの窯元で修業を重ねてから、天保12年(1841)、26歳のとき、数基の絵付窯を築き、絵付工房を始めました。この工房では、庄三によって大勢の弟子たちや絵師たちにおおまかな製作上の指示が与えられ、「庄三風」(彩色金襴手による、割取の構図、特有な文様や色使い)の作品が制作され、その多くには「九谷/庄三」銘の作品が製造されました。特に庄三が好んだ図案は、普段よく見られる農村の風景を精緻に描写した農耕図であり、また農家の庭先であり、そこで餌をついばむ家禽の図でした。

工房では、小野窯の素地、小松の八幡、埴田の素地など、画風にあわせて買い入れた素地に洋絵の具で絵付され、その「庄三風」の製品は大変好評を博しました。また、江戸時代末期から明治初期にかけて輸入された洋絵の具がいち早く取り入れられ、これまで表現できなかった中間色と金を用いて、華やかでありながらも精緻で重厚な画風を築きました。

九谷庄三工房  天保12年(1841)-明治16年(1883)

九谷庄三工房は、天保12年(1841)、九谷庄三(1816-1883)によって能美郡寺井村に開かれました。工房は本焼の窯を持たずに小野窯などから買入れた素地に絵付しました。工房は200人とも300人ともいわれた工人を抱え、「庄三風」の製品を大量に生産しました。

この工房には、早くから、安政2年(1855)に入門した初代 武腰善平、元治元年(1864)に入門した中川二作らが庄三を補佐し、また中野忠次、笠間秀石らも助けたといいます。後に彼らは明治九谷の名工になりました。ですから、工房の製品は、九谷庄三とその高弟らの厳しい監督の下で監修されたので、「庄三風」の完成品ができたといわれ、「庄三風」の製品は大量生産されながらも品質を落とさなかったため、国内外から好評を得ました。

「庄三風」の製品は、明治初期の九谷焼の中で大きな比重を占め、「ジャパンクタニ」の中心的存在となりました。それらは明治九谷の中核をなすものとなり、陶器商人によって輸出され、明治期の我が国の貿易品として海外で大変好まれ、同時に、国内でもよく販売されましたので、明治初期の殖産興業の発展に大きく貢献しました。

しかしながら、庄三が明治16年(1883)に歿すると、高弟らは独立したので工房をまとめる者がいなくなり、工房は自然に消滅しました。ただ、一部の絵師たちは、「九谷/庄三」の銘のある製品を作り続けましたので、その後も、その銘をもった作品は出回りました。

 

管理№ 1901031
展示開始年月日 2019.9.28
販売価格 売却済み
備考 購入者のご厚意で画像を掲載しています