任田徳次 赤絵金彩牡丹図漢詩文六角徳利 一対

作品の解説

赤絵の牡丹図と赤色で書かれた漢詩文を組み合わせて牡丹の富貴さを表しています。特に、牡丹の花を金で線描きし塗り潰すなどして描いています。

サイズ;胴径(最大)約6.8㎝ 高さ 約17㎝

和歌を装飾するために図案が描かれた作品が見られる一方で、この作品は富貴の象徴である牡丹を装飾するために漢詩文を取り入れたと見えます。おそらく、この漢詩文はその末に銘を書き入れていることから、この作品の制作者によって詠まれたと思われます。

徳利の八つの面のうち、牡丹が描かれた2面と漢詩文書き込んだ2面とが背中合わせになり、牡丹図と漢詩文の間に文様のみの1面がやはり背中合わせに挟まっています。よく考えた構図です。

銘は高台内にはなく、漢詩文の末に「彩雲楼 旭山」と書き込まれています。その他に「九谷/旭山」、「九谷」と「旭山」の組合せなどの銘があります。これらの銘の使い分けは不祥ですが、「彩雲堂梅閑」と号した父 徳右衛門が明治6年(1873)に亡くなったのを境に、父に倣って付けた銘「彩雲楼旭山」をやめ、当時一般的になっていた「九谷/制作者の銘」に変えていったと考えられます。

作品の制作者

任田 徳次

文化14年(1817)~明治16年(1883)

任田屋徳次は、春日山窯の陶画工であった任田屋徳右衛門(寛政4年1792~明治6年1873)の子として生まれました。生年には文政元年(1818)であるという説もあります。

父 任田屋徳右衛門は絵画を春日神社社司 高井二白に学び、青木木米のもとで陶画法を修め陶画工となりました。木米が京都に戻ったあと、山代で製陶を試みたこともあるといわれますが、金沢で陶画業を始めました。作品には呉須赤絵風をうまく作陶したものがあり、八郎手風の極めて細緻な文様を描いたものもあります。「彩雲堂梅閑」と号しました。

任田徳次は、そうした父から陶技を習い強い、徳次の画風に強い影響を受けたと見られ、民山窯(文政5年1822)~弘化元年1844)では赤絵細描の技法に手腕を発揮しました。春日山窯が廃窯となった後、加賀藩最後の藩主 前田慶寧が殖産興業のため、慶応3年(1867)に卯辰山山麓の粒谷町に築かれた藩窯「陶器所並陶器竃」に内海吉造とともに陶技の指南役として従事しました。

明治時代に入り藩窯が閉じられたので、その窯を譲り受けて向山窯と称し自営し、明治15年(1882)ころまで操業を続けました。その間、明治2年(1869)に阿部碧海窯で一時、主工を務め、また、東京にも出て活躍したことが知られています。門弟には女婿の初代 諏訪蘇山、春名繁春などがいます。

作品には赤絵細描、呉須赤絵写、染付(日用品)などがあります。父 徳右衛門も向山窯に携わったと考えられ、父の「彩雲堂梅閑」に倣って銘「彩雲楼旭山」を書き入れたと考えられます。また、割取の中の文様をいろいろな色で描き、割取の周りを赤地にしてそこを金彩している作品に「九谷/旭山」と書き込まれています。

 

管理№ 2109131
展示開始年月日 2022.1.1
希望価格 50000円
備考 保存木箱あり