佐野窯の素地

斉田伊三郎は、文政6年(1823)ころから、近隣の窯元から素地を買い入れ、絵付業を始めました。佐野村で素地を焼くことを考え、安政5(1858)年、能美郡佐野与四兵衛山で陶石(佐野陶石と呼ばれる)を発見したので、中川源左衛門、 三川庄助、深田源六らに素地窯を築くように勧めました。この築窯のとき、斉田伊三郎は、小松埴田出身の山元太吉が小松の素地窯 松村屋で9ヵ年に及ぶ修業を重ねていたことを知り、佐野村に太吉を呼び寄せました。太吉は5ヵ年にわたり佐野に滞在して、築窯、陶土の製造、製陶の一切にわたって陣頭指揮をとったといわれます。

こうしたことから、佐野赤絵は佐野で素地窯ができる前と後では異なるといわれます。斉田伊三郎が佐野村で絵付を始めた当初は小野窯などから素地の供給を受け、その素地は真っ白で硬い磁胎でなく、貫入も見られました(画像上部)。一方、佐野窯の素地を使ったと思われる斉田伊三郎やその門人の作品(画像下部)は白磁です。

斉田伊三郎は、没後、斉田道開とよばれ、佐野赤絵の陶祖として崇められました。長年の修業の旅から佐野村に帰郷すると、若杉窯、小野窯などの作陶に係わり、その発展に貢献しながら、独特の画風を築きました。文政6年(1823)、佐野村に絵付の工房を開き、合わせて、村の人々にも絵付を教えて副業とするように勧めました。こうした一地域での分業体制は九谷焼において初めことでしたが、佐野赤絵は生産量を増やし広く知られるようになりました。

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