再興九谷をもっと知る

齊田伊三郎 その1 “赤絵の村”の誕生

今も“佐野赤絵”と呼ばれる九谷焼が誕生した地は江戸末期に能美郡寺井村の一集落であった佐野の集落(現、石川県能美市佐野町)でした。明治時代に入ると、九谷焼といえば、赤九谷といわれたほど、特に赤絵細描の九谷焼が高く評価されましたが、その一翼を担ったのが“佐野赤絵”でした。その生産地“赤絵の村”が形成される道を開いたのが齊田伊三郎(晩年、道開と号す)であり、伊三郎を受け継いで“赤絵の村”を確立させたのが伊三郎の門人たちと窯元(素地窯の主)たちでした。

斎田伊三郎 その2 日本人にとっての「赤色」

なぜ、人々は物を「赤色」に塗ったのか、その意味を調べてみると、塗られた物や塗った時代などによって意味が異なり、「赤色」を用いた人々の想いも異なることがわかりました。さらに、人々が日常で「紅白」(本来なら、赤白ですが)を祝い事などに取り入れ、ときに「紅白」で“ハレ”を演出してきました。「紅白」も、「赤色」と同じように、基本的な色相の一つとして用いてきました。ですから、赤九谷においも「赤色」「紅白」のどちらにも特別な意味や想いが込められていたと考えます。

斎田伊三郎 その3「赤色」の際立った色絵陶磁器

我が国の陶磁器の歴史の中には「赤色」の際立つ色絵陶磁器があります。柿右衛門が中国磁器の五彩(白磁に赤・青・黄・緑・紫で絵付した色絵)に憧れて“柿のような美しい赤色”を開発し、京焼でも、仁清が色絵陶器を、奥田潁川が呉須赤絵を初めて焼きました。多くの色絵陶磁器の中から、特に「赤色」に惹かれた陶画工たちを中心に概観します。

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