加賀の焼き物 ② 加賀藩による茶陶 越中瀬戸焼

安土桃山時代に千利休や堺の商人などによって戦国武将の間で茶道が広まったことで、文禄・慶長の役の際に多くの戦国武将たちは、朝鮮半島から多くの陶工たちを日本へ連れて帰り、彼らによって築かれた領国の御用窯で茶陶を焼かせることを競い合ったという。この朝鮮半島での戦いを別名“やきもの戦争”と呼んだのもこのためである。

一方で、加賀藩の藩主 前田利家・利長親子も千利休の直弟子になるほどの茶人であり、特に、利長は秀でた茶人であったが、朝鮮半島の陶工たちを連れてこなかったので、茶陶を創りだすため、自らの財力と工夫で茶陶作りに取り組まなくてはならなかった。

安土桃山時代での茶陶造りの状況を見ると、尾張国瀬戸(現在の愛知県瀬戸市では瀬戸焼の生産が織田 信長によって積極的に保護育成された)や美濃(現在の岐阜県南部地域)では筒茶碗、沓茶碗、水指、建水といった茶陶が盛んに生産された。それは室町時代に瀬戸などで始まった施釉陶が、桃山時代になると、白、黄、茶、黒、緑などの釉薬によって色彩を出せるようになっていたからである。そして、それまでの窖窯(あながま)を改良して、素焼した後に施釉してから本焼する大窯(おおがま)が現れていた。その大窯が瀬戸から近隣の美濃に拡がり、志野・織部・黄瀬戸といった日本を代表する美濃桃山陶が生み出されていた。多くの瀬戸の陶工が茶陶作りの中心である美濃の地に移ったが、大窯の技術を持った瀬戸の陶工の中には美濃以外でも茶陶造りを行ったという。

その一か所が加賀であった。加賀藩初代藩主 前田利家は、天正16年(1588)、地縁的関係から(利家は尾張国荒子(名古屋市中川区荒子)の出身であり 荒子は瀬戸に近い)、尾張国瀬戸村の陶工・小二郎を招き寄せ、しかも越中の地で良質の粘土が採掘できたことから、前田家の手厚い保護の下、上末(かみすえ 現在の富山県新川郡上瀬戸)の地において瀬戸の大窯と施釉の技術をもとに茶陶造りを始めた。

その後、利家の茶陶作りを継いだのが二代藩主 前田利長であった。利長は、越中・守山城主であった時期から二代藩主の間(文禄2年(1593)から慶長10年(1605))に茶陶造りの一層の育成を図り、越中国新川郡芦見・末ノ荘付近で加賀藩の御用窯を築いた。さらに、瀬戸から陶工たちを招き、瀬戸と類似する陶土を見つけた場所で瀬戸焼と同じ茶陶造りをさせた。こうして、この地域で焼かれる“焼き物”を越中瀬戸焼と呼ぶようになった。当時の古窯跡からは天目茶碗、大海茶入などの破片が見つかっており、茶陶が中心であったことがうかがわれる。

次に若干13歳で三代藩主となった前田利常は潤沢な藩財政のもとで加賀伝統工芸の基礎を築くことに腐心したが、利長の志を継いで越中瀬戸焼の保護を続けることを忘れなかった。こうして、越中瀬戸村の20数カ所の窯から茶碗、茶入、皿、片口、盃、燭台などの生活雑器が送り出され、能登、加賀、越前にまで広がったという。中には茶陶として伝世するものが残っている。

その後、利常は、寛永17年(1640)小松に隠居した後も、越中瀬戸焼を焼く瀬戸村(このころは加賀藩の支藩である富山藩の統治下にあった)に対し年貢や役務を永代免除するほどの庇護を与えた。これには茶陶や生活雑器を制作する意図のほかに、磁器造りの手がかりをつかもうとしていたと考える。鍋島藩は、朝鮮半島から連れてこられた陶工たちによって領内まで広まってきた唐津焼の拡大を見てとり、同じく朝鮮半島から連れてこられた陶工 李参平に磁器(古伊万里)の製作を命じたといわれる。こうした鍋島藩での磁器の製作を始めたことを知って、利常が磁器の製作に強い関心を持ったのも自然であった。

こうして、加賀藩と大聖寺藩では、越中瀬戸焼で“焼き物”造りを経験したことから、豊かな財源を背景にして、中国や有田の磁器を買い集め、何らかの手段で磁器製作のための技術情報を集め、必要な陶石、顔料などを探して、磁器作りに挑んだと考えられる。鍋島藩が唐津焼の拡大を見たのと同様に、加賀藩も越中瀬戸焼を通じて九谷焼という磁器に結び付く重要な手がかりを得たと考える。(この唐津焼と伊万里との結びつきは後述する)

*越中瀬戸焼は江戸末期から明治・大正・昭和の苦しい時代を迎えたが、現在、400年に及ぶ伝統を活かして、素朴さとおおらかな自由さをもった野趣豊かな“焼き物”として焼き続けられている。 [T.K]

参照資料と画像;『越中瀬戸 発祥四百年記念誌』(越中瀬戸焼発祥四百年記念顕彰会実行委員会 S.63年11月発行)より

加賀の焼き物 ③ 古九谷から明治九谷まで

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