明治九谷をもっと知る

明治初期の九谷焼を支えた陶工と素地窯

このように、明治初期において九谷焼の素地造りには大きな課題がありながら、当時の陶工や素地窯が試行錯誤を繰り返し、あるいは他の産地の製法を学びながら、次に述べるように、良質な素地が創り出されたことがわかります(続く)

明治九谷と横浜焼

石川県から進出した陶器商人の多くは、高い評価を受けた横浜焼独特の画風(墨彩、粉彩など)を取り入れて、九谷焼を石川県あるいは横浜で製作し、それに「九谷」銘を書き入れて輸出しました。こうしたことから、外国商館の商人はそうした明治九谷を“横浜九谷”と呼んだといわれます

横浜九谷・神戸九谷の素地

九谷焼が石川県の陶器商人の手によって主に横浜港、神戸港から輸出されると、その一部がそれぞれの港の近隣で製作されるようになり、産地名(この場合は絵付をした場所)を冠して横浜九谷、神戸九谷と呼ばれました。両港の近隣には素地の産地がなかったため、有田、瀬戸、京都などの国内から、一部には欧州から素地を運んできて絵付しました

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