松山窯の素地

松山窯は、嘉永元年(1848)、大聖寺藩が山本彦左衛門(不祥)に命じて江沼郡松山村に登り窯を築かせ、そこに蓮代寺窯の松屋菊三郎、粟生屋源右衛門らを招いて作陶を行った窯元です。主に藩の贈答品として古九谷青手風の作品が作られ、その意匠構成が優れた作品を作りました。ただ、幕末に藩の保護がなくなると、一度廃窯となり、民間の経営に移ってからしばらくの間、染付や陶器製の日用雑器が作られました。

その素地は、大聖寺藩内の九谷村・吸坂村・勅使村などの陶石や土を原料に、松屋菊三郎、粟生屋源右衛門らがもたらした蓮代寺窯の技術によって作られ、鼠色や白色の硬い素地でした。白地を背に描かれた山水図の作品が多く、また古九谷青手に倣って余白の全てを紫で塗り埋められた作品もあるなど、その素地が良い磁胎であったことがわかります。

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