蓮代寺窯は、弘化4年(1847)、小松の松屋菊三郎が粟生屋源右衛門とともに能美郡連代寺に開いた窯元です。菊三郎は佐野の斉田伊三郎に陶画を習い、本多貞吉の薫陶をうけた源右衛門は小野窯で素地造りを経験していましたが、当初の素地は土混じりで使えるものでなかったので、改良を続けました。すると、鉄分を含み、明るい茶褐色な素地が出来るようになりましたが、まだ貫入ができる状態でした。
文久年間(1861-1864)に、菊三郎は、源右衛門の協力により、素地と釉薬の相性が良くなければ貫入や絵の具の剥離が起こりやすいことを知り、また若杉陶石など近隣の陶石や粘土に変え、窯の火度もかなり強くし、古九谷が白磁の素地に五彩で着画したと同じような素地作りの技法を突き止めました。この窯では主工の粟生屋源右衛門のほかに、川尻嘉平、大倉清七(後の寿楽)らが活躍し、その二人は、明治期になると、八幡、大聖寺、山代で明治九谷の素地を作る窯の指導者となりました。
菊三郎は完成した素地に明風の五彩で着画することに成功して、古九谷と同じ程度の焼物を作り上げました。後世、連代寺窯の作品は評価され、明治期に松本佐太郎(菊三郎を継いだ松本佐平の子)は、吉田屋窯の青九谷が磁器でなく一種の炻器の上に着画したものであるのに対し、連代寺窯の青九谷は「真の青九谷である。世にこれを青九谷と云う」と評価しました。