九谷焼の銘 1.明代磁器の銘と古九谷の銘

1.中国での銘款の発展

明代以前の宋・元の時代にも正式な官窯があったものの、官府から指定された民窯が官用製品に“官”“供御”“御用”の字を彫りつけ、民生品と区別するだけの記号のようなもの(識款という)であったので、これは銘ではないといわれます。

その後、明代に官窯で銘が初めて使われたのが永楽官窯で、四文字の染付や銘印の“永楽年製”でした。ただ、その銘文“永楽年製”が器の内部中央の花模様の中に紛れて書き入れてあるなど、銘であることを隠しそうとしたと考えられます。ですから、永楽官窯製とされる磁器の底部や内部中心に堂々と書かれた“永楽年製”は後世の工人が写したといわれます。

次に、宣徳官窯になると、僅か10年の間に、“銘文を入れない”→“記号のような銘文を入れる”→“「宣徳年製」の銘文を入れる”、といった変遷がありました。それでも、銘を記した場所がいまだ一定してなかったので、宣徳官窯では銘文の雛型ができた段階であったといえます。また、銘文“大明宣徳年製”を壺の肩部に染付で書いた理由は宣徳官窯で製作された壺の底部が砂底であったためであって、器の表面に書き込まれていても、それは銘と認められています。

さらに、官窯が移っていくと、一国の陶磁器は一つの窯“景徳鎮”に生産が委託されたので、その銘は窯元名や産地名よりも「大明万暦」「大清乾隆」などの製作年代や聖人賢人を示す銘が重視されたといわれます。こうして、成化官窯は宣徳官窯での銘の形式を継承し、銘の様式が統一されました。印章式銘、銘を書くための“専人専任”の制度が生まれ、この制度は特定な時期と製品を除いて清末まで景徳鎮官窯で継承され続けました。

2.伊万里の銘

日本での銘は、室町時代の備前焼、桃山時代以降の楽焼や京焼などの陶器に始まり、京焼では“銘印”が発達し、京焼の祖といわれる仁清は堂々たる“銘印”を使いました。

一方、磁器の方では、江戸時代の初め、鍋島藩が有田泉山の陶石を使って明代の磁器を模倣したことから、多くの銘も明代磁器の銘をそのまま写しました。当時、泉山で製作された磁器には“有田”とか“鍋島”とかいった制作した窯元名や地名ではなく、明代磁器の銘「大明成化年製」「大明嘉靖年製」などの年号や、それらの変化した「太明年製」、そして一般的な吉祥文であった「富貴長春」「福」などを書き入れました。

ですから、江戸時代の肥前磁器には、柿右衛門窯や今右衛門窯のように、陶画工、窯元、製作年代などがわかる銘がほとんどなく、明清代の銘をそのまま写すということが明治初期まで続けました。この理由は、明清代の官窯と同じく、鍋島藩が、有田町とその周辺の保護地域で素地窯と16軒の赤絵屋(有田における上絵付け専門の業者のこと)に分業させて、技術流出や製品の密輸を防止するため、一か所の窯元で一貫生産することを行わなかったので、製造窯元とか製作者の銘を書き入れる必要がなかったからと考えられます。

3.古九谷の銘

加賀藩の支藩である大聖寺藩は江沼郡九谷村(現、加賀市九谷町)の九谷古窯で中国磁器の染付や色絵磁器に倣って古九谷を製作しました。当時の武家茶人が明代磁器に憧れていたように、大聖寺藩で製作された古九谷にも明代磁器の銘「五郎太夫」(五郎太夫は染付磁器をつくった陶工名)「大明成化年製」「福」が書き込まれ、その他にも「祐」や不可解な篆書文字がありました。

銘の中で最も多い銘は一重角または二重角の中に書かれた「福」で、その字体は楷書・篆書・隷書、あるいは変形の字体などで書かれ、字の色が黒呉須、赤、染付などで書かれています。さらに、そうした銘の上を黄彩や緑彩で塗り埋められたものもあります。このような古九谷の銘は、数十年の間に入れ替わった複数人の陶画工(藩士であったといわれます)によって書き入れられたと考えられ、職人が決められたとおり銘を書き入れた肥前磁器と異なり、古九谷の陶画工の学識や個性が画風と合わせて銘にも表れたといわれます。

2.再興九谷の銘

3.明治九谷の銘

 

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