九谷焼の銘 2.再興九谷の銘

江戸時代の末期に加賀藩や大聖寺藩で興った諸窯では、それぞれの目的や背景から築かれて窯元特有の製品が造られました。したがって、それぞれの銘も、古九谷(青手)の再興を目指した窯では角「福」などが多く見られた他に、窯のあった場所の名、窯主の名の銘に、製作年など加わった銘があります。やがて、絵付業を生業とした九谷庄三のような陶画工が現れると、ブランド品であることとか名工であることを示した銘が初めて書き入れるようになって、明治時代に引き継がれました。

1.春日山窯の銘

春日山窯では呉須赤絵写し、交趾写し、青磁、染付の鉢・皿・向付・徳利などの日用品を主に造り、九谷焼の歴史の中で初めて「金城製」「春日山」「金城春日山」「金府造」「金城文化年製」など、窯の築かれた地名や年代が銘として書き入れられ、それらの一部には二重角の中に入ったものがあります。

こうした銘が加賀藩から指示されたのか、京から招かれた青木木米が提示したのか不明ですが、春日山窯が加賀藩の藩窯であり、藩の中心地であった金沢を意味する「金城」や「金府」が銘として書き入れられたのは当然でした。また、木米が京の粟田口で制作した作品が粟田口焼と呼ばれたことから、加賀藩の中心地“金沢”で製作された製品であり、“春日山”の地で焼かれたことから、産地名が銘に取り入れられたと考えられます。

そして、京焼に「製作年代」を銘にしたものが残っているか不明ですが、製品の一部に製作年代を示す銘「金城文化年製」があるのは古九谷の小皿に書き入れられた「承應弐歳」と同様な意味合いが含まれていると思われます。

2.若杉窯の銘

若杉窯の製品は多岐にわたり、染付による鉢、皿、壺、甕、瓶、向付、香合、火入れなどの生活雑器に加え、赤絵細描の鉢や瓶、青手風の皿や瓶、伊万里風の鉢や瓶など様式も画風も多岐にわたりました。こうした製品の中で藩向けと思われる製品には銘が書き入れられ、二重角に「若」が入ったもの、その書き方が反対の左「若」(画像のとおり)、数少ないものの「若杉山」「加陽若杉」、製作者の三田勇次郎を表わす「勇」などがあります。恐らく藩向けでない生活雑器は無銘であったと考えられます。

以上のほか、窯の物原から、春日山窯で見られた製作年代の銘や製作者名が書かれた陶磁片が見つかっています。例えば「天保七年」「天保八年」などの書き込まれた天保年代製の色絵や染付の碗片、「天保十年初秋 願主 北市屋兼吉」銘のある染付瓶子(徳利か)片、「文政七年 橋本屋」銘の陶片、「天保三歳 施主 橋本屋 安右衛門」銘のある香炉片などが発見されています。このような銘が何を意味しているかは不祥ですが、考えられることは、「願主 北市屋兼吉」は北市屋兼吉から注文があったことを、また「橋本屋安右衛門」は窯の管理者(窯元名)が誰であるかを示そうとしたと見られ、こした陶片からは本来の銘の書き入れ方が試みられたことがわかります。

3.小野窯の銘

小野窯の製品は赤絵細描が主であり、赤に黄緑・緑・紺青・紫などを加えたもの、金彩を施したものがあり、その赤で黒味をおびていて独特の色合いを示します。画風は南画風であり、宮本屋窯や佐野窯が盛んであった時期と重なり、その繊細優美な趣から“姫九谷”の名で呼ばれ、小野窯がひと際高く評価されました。

このような製品には「庄七」(庄三の幼名)銘のあるもの、また二重角に「小野」の窯元名が書き入れられ、差別化を図ろうとしたように見られます。また、吉田屋窯が閉じられた後、なおも、粟生屋源右衛門・松屋菊三郎が古九谷青手の再現を追い求めていた時期の製品と考えられる「小野」銘の入った古九谷風青手の製品があったことも興味深いことです。やはり、銘入りの製品はその窯への高い評価を表わしたと見られ、この窯が素地窯と変容すると、無銘となったことの意味がわかります。

4.民山窯の銘

民山窯は、文政5年、加賀藩士 武田秀平が、春日山にあった本窯(春日山窯が遺したものと考えられる)で焼かれた素地に金沢の自宅に築いた絵付窯で越中屋平吉、鍋屋吉兵衛、任田屋徳次らの陶画工に絵付させ、その製品は天保年間(1830~1843)に金沢だけでなく近隣諸国にたくさん販売され、加賀藩の江戸藩邸跡からもこの窯の碗が発掘されたように高い評価を受けました。

こうした窯の製品に武田秀平の号である「民山」が銘として書き入れ、個人の号が使われたのは九谷焼では初めてでした。一方で、角「福」が書き入れられた製品がないといわれます。それは、角「福」が書き入れられた若杉窯の製品も藩内で使われ、藩外でも角「福」が書き入れられた肥前の製品が販売されていたので、それらと差別化を図ったと考えられます。弘化元年に秀平が没すると、この窯が閉ざされたことから、銘「民山」の製品が信用力のある製品であったことがわかります。

5.吉田屋窯の銘

吉田屋窯は文政7年に古九谷を思慕し続けた大聖寺の豪商 吉田屋伝右衛門によって築かれた窯元で、古九谷青手への伝右衛門の強い思入れから、江沼郡九谷村の九谷古窯(古九谷を焼いた窯)の脇で始まりましたが、1年後に江沼郡山代村にその窯を移転してから天保2年までの約8年間に、粟生屋源右衛門、本多清兵衛(本多貞吉の養子)らが尽力し、素地、絵の具、筆致に吉田屋窯独自の“新しさ”を加えた製品を造りました。その多種多様な製品には古九谷同様に二重角または一重角に入った「福」の銘が思入れをもって書き込まれたことから、当時から、古九谷青手が再現されたと評判となりました。

この銘「福」と共に特記されることは、毎年のように“年代銘”が書き込まれた製品が何点か造られたことです。創業記念を意味したとは考えられず、改良を加えて操業し続けたことを製品そのものでもって遺すためであったと見えます。

そして、“年代銘”と共に”九谷”が書き込まれた製品が遺っていることから、再興九谷の諸窯の中で吉田屋窯が文政年間に銘「九谷」を銘文の中であっても、初めて使ったことと合わせて、箱書きに書かれた「九谷焼」からも、当時、吉田屋窯の製品がそう呼ばれていたことがわかりました。

6.宮本屋窯の銘

宮本屋窯は、吉田屋窯の跡を受け継いで、天保3年から安政6年までの約27年間、独自の製陶を続けました。この窯では、吉田屋窯で見られなかった白色でやや青みを帯びた素地に、陶画工の飯田屋八郎右衛門が赤絵細密画を全面に絵付したことから、その製品を八郎右衛門の名前からとって「八郎」あるいは「八郎手」と呼ばれ、人気を博しました。

しかしながら、そのような評判の製品であっても、当時、いまだ陶画工の名前が銘に書き入れることがなく、代わりに、製品の陶画工が文書に書き残したといわれます。ただ、そうした文書はほとんど残っていないのですが、八郎右衛門は「八郎墨譜」を書き遺しました。その墨譜は一般的な絵手本と異なり、八郎右衛門が製作した製品ごとに図案、文様などが克明に記載されている上、製品に書き入れた銘についても記載されているといわれます。

それによると、銘には一重角または二重角「福」の銘が多く、その他に楕円の中に入った「九谷」、文字のみの「九谷」などが記載されています。これからも、吉田屋窯以来、銘「九谷」が継承され、当時の再興九谷に普及したと考えられます。ただ、墨譜には、吉田屋窯にあったような“年代銘”とは異なり、ほぼ1年前に製作された製品について記載があり、中には“記載した年”も書かれ、しかも順番に綴じられたと見られるので、製品ごとに製作年が推定できるといわれます。

7.佐野窯の銘

佐野窯を開いた斉田伊三郎の作品として伝世されている製品には、当時、すでに九谷焼の銘として広まりつつあった二重角に「福」のほかに、二重角に「九谷」の中を赤や緑で塗り潰した銘が書き入れられました。ですから、伊三郎の窯から独立する前の高弟も師である伊三郎の銘の入れ方を倣ったように見られます。

同時代の九谷庄三のように「九谷」と自身の名前と組み合わせた銘の入った伊三郎の作品はいまだ見つからないといわれます。この理由として考えられるのは、伊三郎の陶歴との関係があると考えられます。伊三郎は20数年間にわたり、主として製陶の技術について研鑽を重ねました。先ず、16歳のとき、若杉窯で本多貞吉から製陶を学び、21歳から5年間ほどは山代の豆腐屋市兵衛のところで南京写の染付の技法を習得してから、再び若杉窯に戻り三田勇次郎から赤絵を学びましたが、勇次郎が若杉窯から去ると、再び、遊学を始め、4年間ほど京の清水焼の名工 水越与三平衛のもとで製陶と絵付の技法を、さらに、肥前の窯元 宇右衛門のところで伊万里の製陶、築窯、焼成法を究めてから、諸国の陶業地を歴遊して、天保元年、36歳のとき、郷里の佐野村に戻ってきました。

ところが、伊三郎が帰郷するや、若杉窯の橋本屋安兵衛から招かれ、若杉窯の拡充を頼まれ、同時に小野窯でも製陶、絵付の技術向上に携わりました。小野窯の赤絵に伊三郎の画風に似たものが見られるのはこのときのものと考えられます。その後、伊三郎は、天保6年、40歳のときになってから独立し、佐野村で絵付窯と陶画塾を開いて、佐野赤絵の基となった絵付技法(赤絵金彩の二度焼)の開発、図案や文様(百老図、網手)の考案に加え、陶画塾勢の塾生に赤絵の技法を教え、明治元年に亡くなるまでに多くの門弟を育成しました。伊三郎は陶画工としての作品を多く遺すことよりも、佐野赤絵の開発者であり指導者であることに徹したため、同時代の九谷庄三のように自身の銘のある作品を遺すことがなかったと考えられます。

8.九谷庄三と庄三工房の銘

九谷庄三は、天保3年、17歳のとき、同時代の斉田伊三郎とは正反対に、小野窯で絵付の才能を発揮し、早くも銘「庄七」(庄三の幼名)のある赤絵のほか、庄三の手によるものと思われる赤絵を次々に製作しました(後世、この赤絵を“姫九谷”と呼ばれました)。

その後、庄三は加賀各地の窯を遊学したのち、天保12年、26歳のとき、寺井村に戻り、絵付工房と絵付窯を開き、40余年に及ぶ絵付業を開始しました。庄三の絵付業は素地造りとの分業を図って大量生産を可能とさせ、庄三は最盛期には200人とも300人ともいわれた大勢の工人を抱える工房の経営者となりました。そこで、工房を代表するために製品に「九谷/庄三」(/は二行書きを意味する)を書き入れる必要が生じたと考えられます。

九谷庄三の銘を追って見ると、初め「庄七」または角「福」に「庄七」の組み合わせから始まり、角「福」に「庄三」になり、さらに角「九谷」に「庄三(小文字)」へと変化しました。すでに、文政年間に九谷焼という呼称が吉田屋窯の製品に使われ、銘文の中にも「九谷」もあったことから、庄三工房でも“九谷焼を作った庄三という意味でこの形式を取り入れたと考えられます。

その後、明治に入り苗字を名乗ることが許されると、庄三は姓名を“九谷”と名乗り、姓名と同じ一行書きの銘「九谷庄三」を一時使いましたが、庄三工房の製品の銘に「九谷/庄三」を書き続けました。庄三が製品を大量に売ることができたのは、この銘が製品に“ブランド力”をつけさせ、国内外から人気を博したといわれます。こうして、明治九谷の陶画工の多くが「九谷」と名前または屋号を組み合わせたことから、銘「九谷/○○」の形式が広がったと考えられます。

ただ、庄三工房の使った銘の持つブランド力が流用されることになり、今でも銘「九谷/庄三」の製品の真贋が問題になっています。工房で製作された製品は九谷庄三とその高弟によって監修され「庄三風」の画質が維持されていたので、高弟が書き入れた銘であっても“九谷庄三(工房)が制作したもの”と見なされたといわれます。かえって、それが庄三の生前から、銘「庄三」の書き入れられた贋作が横行することになり、さらに、庄三が明治16年に歿して工房が自然消滅したことに乗じて、工房にいた一部の工人や一部の陶画工も銘「九谷/庄三」を入れた製品を造りだしたため、銘「九谷/庄三」の模倣品がたくさん出回ることになったと考えられます。

9.連代寺窯の銘

蓮代寺窯は古九谷の再現のために粟生屋源右衛門と松屋菊三郎によって築かれました。菊三郎は13歳のころ、源右衛門に師事して製陶を学び、大いに薫陶を受けましたが、その後も各地で修業し製陶の経験を積んで故郷に戻ると、すでに吉田屋窯が閉じられて古九谷風青手が途絶えていたため、その再現に向け、吉田屋窯から戻っていた源右衛門が陶器を焼いていた窯を源右衛門から指導を受けながら、磁器の素地窯として改造し、絵の具についても学びました。

二人はこれまで再興九谷の諸窯でできなかった古九谷のような白磁の素地に九谷五彩で絵付することを目指しました。次第に白磁の素地に改良され、九谷五彩で絵付された呉須赤絵風の製品、古九谷写しなどが造られるようになりました。そうした製品には古九谷の再現銘に倣って二重角に「福」の銘を書き入れました。中には判読できない字の銘(「寫」のように見みる)のものがありますが、古九谷の写しを意味したと見られます。

10.松山窯の銘

松山窯は、嘉永元年に、江沼郡松山村(現在の加賀市松山町)に大聖寺藩の藩窯として築かれ、“松山の御上窯”と呼ばれました。小松の蓮代寺窯で古九谷の再現の取り組んでいた粟生屋源右衛門と松屋菊三郎によって、当初は藩の贈答品のために古九谷青手風の製品を造りました。二人は藩内の九谷村・吸坂村・勅使村などの陶石、陶土を原料とした素地を造り、それに源右衛門や菊三郎の手によって古九谷青手風の絵付がされ、銘も二重角に「福」が踏襲されました。

しかしながら、藩が山代の九谷本窯(宮本屋窯を買収してできた窯)に財政支援を集中したため、松山窯の保護がなくなると、この窯は民営に移り、大蔵寿楽、浜坂清五郎、西出吉平、北出宇与門、山本庄右衛門らの陶工によって良質の素地が造られ、陶画工には永楽和全、中野忠次らが迎えられて作陶が続けられました。その当時の画風を取り入れた製品が明治5年頃まで造られ、当時すてに普及していた「九谷」「九谷製」の銘を使い、さらに「永楽」「大日本九谷製」などの銘が加わりました。

11.九谷本窯の銘

九谷本窯は、万延元年、大聖寺藩が藩士 塚谷竹軒、浅井一毫を起用して藩が直営する窯とするために元宮本屋窯を再利用した窯です。江沼地方の風土には吉田屋窯、宮本屋窯などに見られる、創意に富むものを創り出した気風が遺り、そこで育まれた熟練工がいました。こうしたことに着眼して、九谷焼を殖産興業の中心にさせようとした政策が施行されました。窯名も九谷焼の原点であることを意味した“九谷本窯”と名付けました。

藩はこの窯の経営を早く軌道にのせるため、慶応元年、京の永楽和全とその義弟 西村宗三郎が招かれました。和全は3ケ年(契約期間)の間に、素地を精良なものに改良し、形状、絵付などに改善と工夫を加えた製品を造り、独自の味わいある新しい画風を加賀の陶磁器に吹き込んだといわれます。こうしたことから、この窯は“永楽窯”と呼ばれ、製品の評判も上がりました。

この窯の製品には、「於九谷永楽造」「於春日山善五郎造」「於春日山永楽造」など、“和全”の名と“地名”を取り入れた銘が多く見られました。他に「春日山」「永楽」などの銘印を捺したものもありますが、この「春日山」は金沢の春日山窯を意味するのではなく、山代温泉にある春日山のことを指しました。

1.明代磁器の銘と古九谷の銘

3.明治九谷の銘

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