2022年11月に行われた東京国立博物館(東博)の今井敦氏による講演を聴いていたとき、「古九谷」と呼ばれる磁器の産地は加賀(現、石川県)であり、「古九谷様式」とキャプションの付いた磁器の産地が必ずしも有田産の色絵磁器でないと知らされました。あらためて、「古九谷」を古伊万里の一部であるかのような呼び方が適切でないと見直されていった経緯を振り返ってみます。
1. 国会での論議「すべて古九谷様式というふうにすることは適切でない」
古九谷色絵竹叭々鳥文大皿 文化遺産オンライン (nii.ac.jp)
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現在、文化財オンラインでは「古九谷 色絵竹叭々鳥文大皿」と表示されていますが、今から11年前の平成23年(2011)7月23日の衆議院文教科学委員会において下記のような論議がありました。この背景には、平成19年、文化庁と九州国立博物館主催の日本のやきもの展において、重要文化財と指定された「古九谷」が“伊万里古九谷様式”と展示されたことを受け、展示者とか展示場所で呼び方をあえて替えたことで混乱を生みだしたからと思います。国会の答弁の概要は次の通りです。
【衆議院文教科学委員会での質疑概要】と
質問者 衆議院議員 馳浩(現、石川県知事)
答弁者 文部科学大臣 高木義明 政府参考人 文化庁長官官房審議官 吉田大輔
<馳委員> 文化財保護法では、文化財のうち重要なものを重要文化財として指定しています。その一つに「古九谷 色絵竹叭々鳥文大皿」があります。これを重要文化財に指定したときの古九谷とは学術上どのようなものを考えていたのか、お聞かせください。
<吉田政府参考人> ご指摘の「古九谷 色絵竹叭々鳥文大皿」につきましては、昭和27年3月29日に国の重要文化財として指定をしております。指定当時におきましては、一般的に、江戸時代初期に現在の石川県加賀市内で描かれたとされる色絵付きの磁器のことを、古九谷ということで認識をしておったところでございます。
<馳委員> 現在、東京国立博物館を初めとする独立行政法人の国立博物館では、古九谷を、伊万里古九谷様式もしくは伊万里焼として展示しています。これは、かつて石川県で制作されたと言われた古九谷が、すべて佐賀県伊万里、つまり有田で制作されたものと断定してのことと思いますが、こうした伊万里古九谷論争は、器と絵付け産地の問題も含め、近年の調査研究では反論資料も出てきており、決着していない問題です。この問題について、国立博物館では断定的な表示を行っていますが、これについてはどのように判断をしておられるのでしょうか。
<吉田政府参考人> 一般論といたしまして、独立行政法人国立文化財機構が設置する博物館において展示される文化財の表示につきましては、機構の責任において行われておるものでございまして、国として、それについてはコメントする立場にはないかと思います。
なお、この点につきまして、機構からは、ご指摘の表示については、関係学会における学術研究の成果などを踏まえまして、当時の肥前で焼かれたと考えられるものについては、産地を伊万里とし、分類を古九谷様式として表示したというふうに聞いております。
<高木国務大臣> 今の、重要文化財の指定が実際の展示物として表示されていないというのは非常にわかりにくいことで、私としては、ちょっと実態把握をしてみたいと思います。
<吉田政府参考人> その名称の中に産地名や分類名を示す部分が含まれている文化財につきましては、簡潔に、かつ観覧者にとってわかりやすく表示するという観点から、基本的に、これらの産地名や分類名を示す部分を区分いたしまして・・・江戸時代初期に九谷で焼かれた色絵磁器は、少ないながらも存在をしております。現在、古九谷とされております色絵磁器をすべて古九谷様式というふうにすることは適切でないとは思っております。
2.独り歩きした「古九谷様式」
この国会の論議より3年前の2009年 10月に開かれた、東洋陶磁学会における第4回研究会において今井 敦氏(東京国立博物館)が発表した『古九谷様式の色絵磁器について』をきっかけにして「古九谷」と「古九谷様式」とが分けて考えられるようになり、「古九谷様式」が独り歩きしたようです。その論文の一部を紹介します。
「古九谷問題の混乱の一因は、あまりにも多様な内容の磁器が「古九谷」の名のもとに括られている点にある。大河内正敏が提唱した「古九谷」から、その後、藍九谷、吸坂手、初期の輸出色絵などが次々と外されていったが、「古九谷」の枠組み自体を実証的に見直すことはなぜか行なわれなかった。そして残された五彩手、青手、祥瑞手の三種をひとまとめにしたままで「古九谷様式」と呼びかえたために、これらがあたかも一つの「様式」であるかのような印象を植え付ける結果となってしまった」
こうして、都内のいくつかの美術館では「古九谷様式」の解説や展示物のキャプションが見られるようになりました。
(1)2010年6月五島美術館学芸員によるギャラリートークにおいて
「肥前有田では、初期の作風は当時の中国景徳に青花に似るが、古九谷様式と呼ぶ独自の色絵磁器を製造し、その後は鍋島藩の管理のもと、国内で唯一の磁器窯として発展する。最も初期の色絵磁器である」
ただ、この説明を聴く前に耳にした下記の会話から、いまだ「古九谷様式」が何であるかを理解されていないと思われました。
お父さんは「古九谷の青は、本当に有田で焼かれたのかなあ・・・」といい、お母さんは「当時の有田の技術であったら、できたと思うわ」といいましたが、娘さんは「でも、この青や緑が有田にないから、それも不思議ね」
(2)2011年6月根津美術館の当時の副館長 西田宏子氏による講演で
古九谷産地論争に関連して西田宏子氏は未だはっきりしていないと述べていました。
「産地が伊万里であることを証明したいが、(発掘調査には多くの資金が必要で)資金不足でできていない」「素地の全部が全部、肥前のものでないといわれているが、決定的な結論は出ていない」「では、何と呼ぶか、古九谷様式と呼ばれることも考えられるが、今後の課題である」
3.平成25年(2013)ころに「古九谷様式」の呼称変更の兆し
文化庁と独立行政法人の国立博物館が何らかの議論があったのか不明ですが、平成25年(2013) 3月 に東洋陶磁42号に掲載された今井 敦著の『「古九谷」概念の形成と変遷について-「古九谷様式」の再検討-」の中で、今井氏は次のように述べ、加賀で九谷焼(再興九谷を指したと思われる)が造られることになったのは、「古九谷」が加賀固有の「伝統工芸」であったことによると指摘しています。
「東京国立博物館の前身である東京帝室博物館では、昭和6年(1931)と昭和9年(1934)に購入と寄贈によって古九谷を収集しており、おそらくこの頃には古九谷が古陶磁のジャンルとして認知されていたものと考えられる。このように見てくると、現在に通じる古九谷の概念の骨格が固まったのは、早くても昭和初期のことと思われる。「九谷」が加賀産の陶磁器の代名詞となったことからわかるように、「古九谷」は近代の窯業生産地である加賀にとって「必要とされた伝統」だったのである」
4.現在の美術館や博物館での表示はどうなっているか
根津美術館での現在の表示
文化庁が「一般論といたしまして、独立行政法人国立文化財機構が設置する博物館において展示される文化財の表示につきましては、機構の責任において行われておるものでございまして・・・」と答弁したように、美術館や博物館において独自の責任において適切な表示と説明がなされていると考えます。
現在の根津美術館のHPを見ると、上の画像のように「色絵山水文大鉢(青手)古九谷様式」と表示されていますが、11年前に当時の副館長西田宏子氏が「何と呼ぶか(中略)今後の課題である」と述べてから、調査研究した末に、「有田で1650年代に作られていたことが明らかになった」とコメントを加え説明していると考えられます。