斎田伊三郎 その3「赤色」の際立った色絵陶磁器

我が国の陶磁器の歴史の中には「赤色」の際立った色絵陶磁器があります。江戸初期に、柿右衛門が“柿のような美しい赤色”を、仁清が王朝趣味の意匠を華やかに彩る赤色を、江戸後期に、奥田潁川が文人たちの眼を惹きつけるような弁柄の赤色をそれぞれ創製しました。多くの陶画工たちは自分の「赤色」に独自の想いを込めて制作した色絵陶磁器の歴史を概観します。

柿右衛門の“柿のような美しい赤色”

初代 柿右衛門は、自分の想う「赤色」を試行錯誤の末に、濁手の磁胎に合わせた“柿のような美しい赤色”を見つけたと語り継がれています。その後、歴代の柿右衛門が初代の“柿右衛門の赤”を守る継ぐために、代々の赤絵の具の処方を「赤絵具覚」に書き残してきました。

柿右衛門(十三代)の赤(個人蔵)

“柿右衛門の赤”は原料の“ろくはん”を造ることから始まりました。水を張った大きな壺の中に酸化鉄(赤さび)を入れ、10年という長い歳月をかけボロボロにさせ、その粒子を潰して小さく細かくし、細かくすればするほど、“柿右衛門の赤”になることを発見しました。次に、この“ろくはん”をガラス質の材料などと混ぜ合わせて“すり”作業を繰り返しました。こうして、水簸、“すり”、材料の調合を変えて特異な色相に発色する独自の赤絵の具を見つけました。一つの色を作るのにも手を抜かなかったといわれます。

“柿右衛門の赤”には、”赤カバ”(黒みが強い;輪郭などの縁を描くため)、”濃赤(だみあか)”(朱色に近い;柿の実を絵付するため)、”花赤”(“柿右衛門の赤”を象徴するもの;鮮やかな花を表現するため)などがあり、用途に合わせて使い分けされました。

柿右衛門と今右衛門を除き、有田焼に用いた赤絵の具は、当初、オランダ東印度会社が長崎に輸入したインド産「ベンガラ」(良質な酸化第二鉄)を原料にして長崎にいた中国人が造ったといわれます。その後、有田赤絵町の絵の具屋が備中高梁の吹屋産ローハに代えて、「弁柄」を造りました。江戸末期、若杉窯において三田勇次郎がその「弁柄」を持ち込んで、若杉伊万里と呼ばれた色絵磁器を焼きましいた。

仁清の用いた赤色顔料「朱」

柿右衛門が色絵磁器を焼き始めてから間もなく、京焼の御室焼(おむろやき)で野々村仁清が初めて色絵陶器を焼きました。この色絵陶器は、白釉が掛けられた、やや卵殻色の下地(素地)に赤、緑、青、金などで絵付し、全体からは柔和な印象を受けます。

仁清 色絵陶器(石川県立美術館蔵)

仁清の色絵陶器の製法は、磁器のそれと同じで、登り窯で焼いた下地に絵付してから、内窯(錦窯)で700~800度で焼くという“二度焼き”でした。この焼成温度を下げる方法で「赤色」顔料を焼き付け、これによって、仁清は華やかな王朝趣味の意匠や狩野派の絵を基調とした絵画的意匠を表現することができました。

仁清の用いた「赤色」顔料は「朱」で、濃い「赤色」でした。仁清から直接に色絵技法を学んだ尾形乾山が著した“陶工必用”の中で、仁清が「上々辨柄丹土の事」と述べたように、「弁柄」がこの上もなく良いとしながらも、十分に手に入らず、仁清の想いを表現できなかったと考えられます。当時の「弁柄」は「丹土(にど )」から造ったもので、京都に住む中国人の“焼物師”が造ったので、高価で入手するのが容易でなかったとみられます。

画像の色絵陶器は、仁清の作品を好んだ金森宗和(宗和流祖)から加賀藩主前田利家に贈られたもので、色も形も洗練を極めた色絵陶器で、この五彩が古九谷の色絵に影響を与えたと考えられます。

奥田潁川の呉須赤絵

仁清の色絵陶器が開発されてから百数十年後、今度は、奥田潁川によって色絵磁器が京都清水五条坂周辺で初めて焼かれました。潁川は明末に景徳鎮近くの民窯で焼かれた呉須赤絵(我が国だけでの呼称)に深い思慕を抱いたといわれます。潁川は、その先祖が明末に亡命してきた明人の末裔であったといわれ、焼き物に全くの素人でしたが、呉須赤絵写しの制作に挑戦しました。瀬戸で磁胎技術を修得し、先進技術の集まる五条坂周辺で「吹屋弁柄」を手に入れ、その発色を追求し、京焼初の色絵磁器を制作しました。

この呉須赤絵写しは、「弁柄」ならではの鮮やかに発色させ、伸びやかな筆致で文様が描かれていたので、白い磁胎に映える「赤色」に惹かれた文人たちから人気を集めました。こうして、潁川は、京風の“雅”だけでなく、自身の燃えるような陶芸への情熱を見事に「赤色」に表わしたと思われます。

奥田潁川 呉須赤絵写し(図録より)

潁川の色絵技法は惜しげもなく弟子たちに伝えられ、弟子の青木木米、仁阿弥道八(二代)、水越輿三兵衛(初代)らが各地の窯場に広めました。その一人 青木木米が呉須赤絵などの色絵の技法を春日山窯にもたらしました。また、斎田伊三郎が京都で水越輿三兵衛から色絵の技法の指導を受けてから、佐野村に戻って、佐野赤絵を開発しました。

水越輿三兵衛の「朱赤」

水越輿三兵衛(よそべい)による画像の作品について「白化粧の素地に朱赤で瓔珞文の赤く塗った丸紋と線描が鮮烈に描かれている」と解説されています。“朱赤”とはやや黄をおびた「赤色」をいい、清水五条坂周辺ではこうした「弁柄」の発色方法が早くも存在していたことがうかがわれます。

水越輿三兵衛の朱赤 (図録より)

「弁柄」は、その粒子径をより細かくする、合わせて、ほかの材料の配合を調整することによって、色相がより明るい色相(朱赤に近い)になるという技法が清水五条坂周辺で得られたので、輿三兵衛もそれを使ったとみられます。この「朱赤」は同じ輿三兵衛作の呉須赤絵風の鉢より明るい「赤色」に発色しています。佐野窯を開いた齊田伊三郎は輿三兵衛の窯場で得た「弁柄」の発色法と合わせて京都の開放的な雰囲気も佐野村に帰ったと考えられます。

永楽保全・和全の赤地金襴手

永樂保全は陶器も磁器も手掛け、仁清写しの「赤色」を取り入れた作品も制作しました。保全以降、“秘伝の赤”が永楽家に伝わり、その「赤色」は、濃厚でありながら、渋味や黒味がなく温和な光沢を放ち、わが国で陶磁器に用いられた「赤色」の中で最も優れた「赤色」の一つといわれます。

 

 永楽保全の金襴手(図録より) 永楽和全の金襴手(石川県立美術館蔵)

保全の跡を継いだ 永楽和全が加賀の大聖寺藩九谷本窯に招かれ、京焼風の金襴手を焼いたとき、永楽家伝来の「赤色」を用いました。この「赤色」を用いた作品が加賀全土で高く評価され、明治初期、浅井一毫らによって制作された“九谷赤絵”の基盤的な色相の一つとなりました。

参照;再興九谷 九谷本窯

再興九谷の赤

春日山窯の呉須赤絵

江戸末期、青木木米と本多貞吉は加賀藩に招かれ、色絵磁器と本窯の技法を使って、呉須赤絵写しを金沢の春日山窯で制作しました。白い素地の上に「弁柄」の鮮やかな赤と濃い目の緑とを対比させながら、黄・青・黒などをところどころに取り入れた奥田潁川風の赤絵磁器によく似ています。その後、これがきっかけにして、民山窯などが「赤色」を多用した細描画を描きました。

春日山窯の呉須赤絵写し(石川県立美術館蔵)

詳細;再興九谷 春日山窯

若杉窯の加賀伊万里

若杉窯の作品には、肥前有田で色絵を修得した三田勇次郎が製作した伊万里風の赤絵があり、それを加賀伊万里とか若杉伊万里と呼びました。

この「赤色」は“ペンキ赤”と呼ばれ、「吹屋弁柄」のような鮮やかな「赤色」と異なる発色をしていることから、有田産の「弁柄」が用いられたとみられます。斎田伊三郎は、京都に出る前に、若杉窯で勇次郎のもとで着画法を学びましたが、勇次郎の影響より水越輿三兵衛のその方が大きかったとみられます。

若杉伊万里(石川県立美術館蔵)

参照;再興九谷 若杉窯

小野窯の赤絵細描画

小野窯は若杉窯出の陶工が開いた窯元で、天保年間初めに佐野村に戻っていた斉田伊三郎から素地や着画の指導を受けた一方で、客分の陶画工たちを主工として迎え入れて製品を製作しました。特に、庄七(九谷庄三の幼名)が制作したとされる“姫九谷”は赤絵細描画の名品でした。また、この窯では多くの絵付職人(当初は農業と兼業でした)が見よう見まねで、人物や文様を赤一色で描いた生活雑器も乱造しましたが、やがて、色絵も止め、素地窯として終わりました。

小野窯の赤絵細描画(石川県立美術館蔵)

参照;再興九谷 小野窯

民山窯の赤絵細描画

民山窯では加賀藩士 武田秀平が創始者として、また製品企画者として係わりました。他の再興九谷の諸窯とはその生い立ちが一風変わった窯で、秀平自身の春日山窯再興への想いと工芸品への洗練された美意識、そして、秀平の構図を絵付した陶画工たちの高い技巧があってこそ、数々の名品が制作され、それがほかの九谷焼に大きな影響を与えました。民山窯の赤絵細描画は、のちに九谷焼の一様式となる「八郎手」の先駆をなしたといわれます。

磁胎が淡い茶褐色を帯びていたため、その「赤色」が濁った「赤色」の“臙脂赤”に見える赤絵と、色絵、また金彩も施された赤絵金彩もあります(一度焼きのため金に光沢がなかった)。また、製品の種類は、前田藩江戸藩邸跡からも発見されたように、工芸品(香炉、花瓶、煎茶器など)から生活雑器(食器、酒器)までと幅広く、広範囲にわたり販売されたといわれます。

民山窯の臙脂赤(石川県立美術館蔵)

秀平は、姫路藩士であった頃から、美術工芸品を好み、能、和歌、書画などをたしなみ、京都に遊学していたとき、京焼五条坂周辺で当時の色絵磁器を目にしたと思われ、文化11年(1814)から加賀藩老に仕えていたとき、藩窯 春日山窯初期の製品も見ていたと思われます。春日山窯が民間に移ったあと、藩主に仕えると、金沢城内の御細工所(武具や調度品などの工芸品を制作し修理する工房)の細工方(工房付き役人)に就いたとき、藩窯の再建と色絵磁器の制作を想ったと思われます。金山方(鉱山役人)も兼ねていたのも、陶石の確保も担っていたと考えられます。

そして、民山窯を支えた陶画工として、明治にかけて活躍した赤絵細描画の陶画工などが関わりました。職長に越中屋平吉青木木米から陶法を学ぶ)、陶画工に鍋屋吉兵衛(赤絵細描に長けていた その子 内海吉造は明治初期に金沢九谷で活躍した)、任田屋徳次(赤絵細描の技法で手腕を発揮した)らがいました。

参照;再興九谷 民山窯

木崎窯の赤絵細描画

飯田屋八郎右衛門の赤絵細描画に先立つ数年前の天保2年(1831)、木崎卜什が現在の山代温泉新村(しむら)で絵付窯を築き、赤絵金彩の作品を制作しました。子の万亀も卜什によく似た八郎手風の赤絵細密画を描き、“九谷赤絵”を先駆するものと称されます。

木崎万亀の赤絵(石川県九谷焼美術館)

卜什、万亀の二人が仁和寺御室御所に出仕していたころ、京焼では「赤色」を多用する磁器が奥田潁川の弟子の青木木米、二代 仁阿弥道八、初代 水越輿三兵衛らによって、また、金襴手が永楽保全によって制作され、二人とも京焼の雅趣溢れた色絵磁器に惹かれたと考えます。

参照;九谷焼 江戸末期の他の諸窯 木崎窯

宮本屋窯の赤絵細描画 

宮本屋窯の絵付主工であった飯田屋八郎右衛門は「八郎手」の画風を築きました。八郎右衛門は、大聖寺町で代々続いた染織業を営む父から染色技法を修得した染色職人で、31歳のとき、宮本屋窯の絵付の主工へ転じました。八郎右衛門の師が誰であったかは不明ですが、江戸末期に流行った加賀友禅小紋の染色技法を活かして、陶画工に転ずることができたとみられます。その染色作業は白い布の上に加賀五彩(臙脂色・草色・黄土色・古代紫・藍色)の染料で文様を手描きする技法で、磁器の絵付技法に似ていました。

八郎手の赤絵細描画(石川県九谷焼美術館)

「八郎手」の特色は方氏墨譜から得た中国風の人物・山水・楼閣・動物などをモチーフにした図案と、その周囲を小紋で埋めた赤絵細描画でした。そして、八郎右衛門は、鮮やかに発色した「赤色」を、宮本屋窯の近くですでに窯を開いていた木崎窯の木崎卜什の赤絵金彩の作品や京焼の奥田潁川の呉須赤絵を研究したとみられ、ほかにも、小野窯、民山窯、潁川の弟子たちの作品なども参考にしたといわれます。

八郎右衛門が築いた「八郎手」の赤絵細描画は、明治期になって、竹内吟秋、浅井一毫らが完成させた“九谷赤絵”の先駆を行くものでした。

参照;再興九谷 宮本屋窯

斎田伊三郎の佐野赤絵

佐野窯を開いた斉田伊三郎は、多くの門人たちに陶技全般を惜しげもなく教え、彼らが独立した後も、彼らと共に素地から絵付まで行う“赤絵の村”を築きました(赤絵村の誕生)。弁柄の「赤色」を多用した赤絵細密画は、上述の「八郎手」と異なる趣を見せています。白い余白をバランス良く置いて「弁柄」の「赤色」で図案や文様を細描し、加えて、金彩の二度焼き技法によって金が鮮やかに発色し、赤絵金彩も加わりました。これらの画風は、江戸末期から明治大正にかけ、一世を風靡した赤絵細描画の一翼を担いました。多くの門人たちによってこの「佐野赤絵」が継承され、現代に受け継いだ福島武山氏は今も「吹屋弁柄」を用いて「佐野赤絵」を描き続けています。

佐野赤絵(寺井町指定文化財)

参照;再興九谷 佐野窯

 

上述のように、再興九谷で「弁柄」の特性を活かした赤九谷が制作されました。江戸末期、陶画工を志した加賀の若者たちの中には、文化的に繋がりが強く、製陶技術の開放された先進地の京都に向い、磁器の絵付を修業した者や、すでに京都で活躍した者などがいました。彼らは加賀に戻り、「吹屋弁柄」と呼ばれる「弁柄」の鮮やかな「赤色」に惹かれ、「赤色」で図案や文様を表現し、やがて、”九谷赤絵”と呼ばれるまでに高度な作品を制作しました。

次の「九谷赤絵を生んだ吹屋弁柄」では、どんな特性が「吹屋弁柄」に備わっているのか、江戸末期に、その弁柄が現在の岡山県備中高梁市成羽町吹屋においてどのように高度な技術で大量に製造され、磁器の絵付以外にどんな用途に拡がったかを述べます。

資料;図録「乾山と京のやきもの展」NHKプロモーション

 

 

 

 

 

 

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