古九谷五彩手には、「赤色」の絵の具を用いて細描画の蝶(画像①)や、鳳凰、松葉、亀甲文、菱文、紗綾文などが見られ、また、斎田伊三郎の赤絵徳利には、画像②のような「紅白」の龍の図案が見られます。そして、九谷焼の他の多くの作品を観ていると、「弁柄」の発色の仕方が、“黄赤色”から“鮮やかな「赤色」”そして“赤褐色”まで微妙に異なっています。それは、多くの名工が弁柄そのものと他の材料の配合、擦り作業、絵付窯の燃焼温度などに工夫を加え、独自の美しい「赤色」生み出したからと考えられます。
現代の“佐野赤絵”の第一人者、福島武山 氏は「細かくても濃く盛り上がった、指先でも感じることができるような、線が理想です。しかしこれがなかなか難しい」、「その細かさを徹底しています」と述べられ(*1)、なおも、竹内吟秋、浅井一毫ら明治の名工たちが「吹屋弁柄」の特性を引き出して「九谷赤絵」の“決め手”となった赤絵細描画を創造したことに感銘されています。そこで、「吹屋弁柄」の特性がどんなものか、それを造ってきた歴史を述べてみます。
吹屋弁柄の特性「決まる線」
(「伝統顔料の赤に挑む」から引用一部加工)
岡山大学の研究(*2)によると、「吹屋弁柄」の粒子径がナノレベルで揃っているため、福島氏の言われる「「細かくても濃く盛り上がった、指先でも感じる」絵付ができると指摘しています。上図のように、素地の上に塗られた絵の具の「上絵層(ガラス層)」の中でベンガラの微粒子が分散し、その大きさと上絵層の厚さとが赤絵の発色に影響していることを考えだしたことがわかります。
磁器の素地に塗られたベンガラは、高温で焼成されたとき、ベンガラに含まれる不純物の一つである極微量のアルミニュウムによってベンガラの粒子が大きくなるのを抑えられ、その粒子径が変化しないことがわかったといいます。さらに、その粒子が小さいほど(粒子径100ナノ・メートル)、鮮やかな黄赤色になり、逆に粒子が大きくなるほど赤色が濃くなることも解明され、また、ベンガラ粒子を含む上絵層が厚い場合、絵付の燃焼温度にもよりますが、濃い赤色に発色することもわかりました。
また、別の研究(*3)によると、「吹屋弁柄」による線描では「細かくても濃く盛り上がった」線を描くことができることが解明されました。ベンガラのような粒子の細かい顔料には上絵層の中で顔料の粒子が浮いてくるという性質があり、その性質によって高い隠ぺい力をもつベンガラで引かれた細い線に“切れ味”が出てくることがわかりました。つまり、ベンガラの高い隠ぺい力によって下地の色から影響をほとんど受けないため、発色したベンガラ自体のため、下の色をおおい隠せて塗られたところの色彩がより鮮明となると考えられます。しかも、この隠ぺい力には、弁柄の粒子径と関係していて、その力は70~100nm(ナノ・メートル)で急激に増加し,100~200nmで最大となって,それ以上の粒子径になると、ゆるやかに減少していくこともわかりました。こうして、岡山大学の研究と合わせて考え合わせてみると、粒子径100nmの「吹屋弁柄」が鮮やかに発色するので“決まった”線が引けることがわかります。
吹屋弁柄の歴史
では、この粒子径100nmの微粒子のハイテク製品「吹屋弁柄」が江戸末期にどのようにして誕生したかを概観してみます。(詳しくは資料4を参照してください)
「吹屋弁柄」が生まれた所は備中国吉岡銅山(現在の岡山県備中高梁市吹屋町)で、その始まりは、宝永4年(1707)、銅山の捨て石(品質の劣る硫化鉄鉱)をもらい受けた村人ら数人が偶然見かけた赤くなった捨て石を見て素朴な方法で弁柄を造ることを試みたのが始まりと伝えられます。彼らは細々と造り続けましたが、大きな転機を迎えたのが50年後の宝暦元年(1751)、吉岡銅山の本山鉱山が開坑されたときであったと伝えられています。
本山鉱山から良質な硫化鉄鉱が鉱脈として大量に見つかったことから、長門国(現在の下関市、萩市、長門市、美祢市などを含む)の住人 原弥八が招かれました。弥八は、試行錯誤の末、その硫化鉄鉱を使って弁柄の中間原料である、良質な緑ばんの製造に成功し、さらに、数年の歳月をかけ、「吹屋弁柄」を生み出しました。その後、下の図のように、良質な弁柄を製造する技術が確立され、明治にかけ生産規模を徐々に大きくしていきました。
「弁柄製造工程」鉱石が顔料になるまで(「大地の赤ベンガラ異空間」から)
原弥八の出身地長門国には、長登銅山(現在の美祢市秋吉台付近)があり、古くはそこで奈良の大仏の建立のために銅が採掘されましたが、江戸時代の元禄期(1688~1704)になると、大阪の銅商人たち(銅座 主宰者は住友家)が経営するに及び、さらに、吉岡銅山にも係わるようになりました。吉岡銅山で良質で豊富な硫化鉄鉱(古くから顔料の原料に使わていた)が発見されたことを知り、長登銅山で培った顔料の製造にかかわっていた職人の弥八が招かれました。長登銅山で造られていた“滝の下緑青”は、古くから、着色用緑色顔料として世に知られていましたが、その製法は鉱物の塊を砕いて篩(ふるい)や水簸(すいひ)等を利用し、様々な粒径の粒子を作り出すというものでした。弥八はこの製造技術を応用改良したとみられ、吉岡銅山の良質な硫化鉄鉱から顔料の「弁柄」を造ることを試みたと考えられます。
左端;緑ばん 右端;焙焼後の弁柄 (旧片山家住宅の資料展示品)
まず、磁硫鉄鉱を焼いて淡青色の緑ばん(左端;緑ばんの見本瓶)を造るローハ工場の工程では、上粗銅の製造工程に似ていたと見られ、硫化鉄鉱を30日間程大量の薪を燃やして焼き、不純物をかなり除き、いくつかの精製の作業を経て、良質の緑ばんが造られました。
次の弁柄工場では、長い工程のなかに、2回の釜焼(右;焙焼後の弁柄)、3回の粉成し(粉砕)が繰り返され、水洗い(*水簸)を経て微細な粉末を選別する工程が組み込まれ、最後の工程で“あく抜き”(*あく抜き)を100回ほど繰り返すと,弁柄の微粒子が泥状の水の中に浮き、この水が淡赤色に染まり、弁柄が沈殿しなくなります。この泥状の水を干し板(箱状)に流し込み、天日干しして篩にかけ包装して製品となりました。こうした工程毎には経験を積んだ職人がいて、微妙な作業をしたといわれます。正に、職人技によって粒子径100nmの微粒子の「吹屋弁柄」が造られました。
(*)焼鉱;鉱石の温度を鉱石中の硫黄分が燃える温度まで上げることにより、外部から燃料を追加しなくても、不純物を部分的または全てを燃焼させ除去する
(*)水簸;粗粉を水中に入れると,粗粉が先に沈むことを応用して、細・ 粗を分け,同時に砂・石灰石・酸化鉄などの夾雑物を除去する。鉱物から顔料を作ること、窯業原料の陶土の品質向上のために広く用いられている
(*)あく抜き;ここでいう「あく」とは硫黄分を含むガスのことで、泥状の弁柄に溶けている「硫気」を指す。これが残ったまま、弁柄を塗り焼くと、塗布面に悪影響を及ぼすと考えられている。
吹屋弁柄の拡がり
「吹屋弁柄」は、その良質な弁柄の製造方法を確立し、その規模を徐々に大きくしていったといわれます。寛政年間(1789~1801)、「吹屋弁柄」が大阪市場に出回ると、それまでの“鉄丹弁柄”は大阪市場から追い出されましたが、皮肉にも「吹屋弁柄」を取り扱った問屋仲間は28軒以上の「鉄丹弁柄」の問屋であったといわれ“鮮やかな赤色”を宣伝文句に販路を全国各地に拡がっていきました。「ふきやの話」(*資料4)には、既存の朱座との「吹屋弁柄」の取り合いの展開が書かれています。
吹屋街並の塩田瓦屋根
急速に拡がった頃の弁柄は、織物の下地染め、家屋の防腐塗料、瓦の着色などの需要が増していきましたが、磁器の絵の具には未だ拡がっていなかったようです。おそらく、磁器の絵の具に用いられた「吹屋弁柄」は品質的に最優良の銘柄であったといわれることから、京焼で絵の具として用いられるに従い、改良されていったと考えられます。
「吹屋弁柄」の用途・使用場所については、「大地の赤 ベンガラ異空間」(資料*1)に載っている、明治22年(1889)の片山家(弁柄工場の最大手)の用途・出荷地から見て、需要先が広範囲で、下表のとおりです。その頃、現在の岡山県備中高梁市成羽町吹屋には弁柄工場6軒とローハ工場3軒が操業し、それらが株仲間を組織し、「吹屋弁柄」あるいは「緑播(ローハ)」を製造販売したことが述べられ、明治・大正・昭和初年にいたる200年の間、「吹屋弁柄」は長く独占的な繁栄を続けました。
用 途 | 製 品 ・ 使 用 場 所 | |
塗 料 |
建物 | 吹屋、倉敷、内子、萩、祇園新町、産寧坂、妻籠宿、奈良井宿、高山、関宿 |
建具・道具 | 江戸指物、小木箪笥、庄内箪笥・船箪笥 | |
漆器 | 輪島塗、山中塗、飛騨春慶塗、江戸漆器 | |
船底・鉄橋 | 瀬戸内造船所 | |
絵の具 | 陶磁器 | 九谷焼・有田焼(注) |
繊維染料 | 下地染め | 名古屋繊維産業、大阪工芸工業地帯 |
顔 料 | インク・瓦 | 東京印刷用インク、赤漆喰壁、 |
瓦 | 石州赤瓦、塩田瓦 |
(注)有田焼;赤絵町の絵の具専門店が吹屋からローハを俵で仕入れ、自前で焼き、焼く時間と温度を変えて、独自の5種類の赤絵の具を製造した
このように、吹屋弁柄が長く繁栄を続けた理由は、その品質が優れ、用途に応じていろいろなグレードの製品が大量に造られたといわれます。製品価格を見ると、磁器用などの最高級品の価格が、明治28年(1895)、米1升(約1.5㎏)が10銭であったころ、百匁(375グラム)入り1袋で60銭であったといわれ、年代が不明であるが、片山家に残る、66銘柄の値段表を見ると、百匁あたり1円から2銭の価格幅があり、いろいろな用途に用いられたと見られます。
次に、いろいろなグレードのある中で高い価格の高い「吹屋弁柄」を用いた赤九谷をいくつか見てみます。
資料
1「大地の赤 ベンガラ異空間」(INAXライブミュージアム)のp.54-57
2「伝統顔料の赤に挑む」(岡山大学 高田潤 浅岡裕史)
3「顔料の粒子形態と光学的性質」(工業技術院大阪工業技術試験所 信岡聰一郎)
4「ふきやの話」(長尾隆)