この作品は斉田伊三郎が陶業を修得したという二代 水越輿三兵衛のものであり、吹屋弁柄で塗られた粗衣を着た人物画、線描の雷文などが「吹屋弁柄」で描かれた逸品です
水越輿三兵衛(二代);屋号を伊勢屋といい、初代は明和年間(1764〜72)に五条松原で古清水風の陶器を焼き、二代は文化年中(1804〜17)に五条坂に窯を持っていたといわれ、調和軒と号し、弘化2年(1845)に四十余歳で没しました。
二代は、初めて京焼で「吹屋弁柄」を用いたとされる奥田潁川の弟子の一人であった、初代から陶法全般を学びました。文政5(1822)年から4年間ほど、佐野窯を開いた齊田伊三郎を指導し、伊三郎はこのとき製陶と着画の技法、奥田潁川の赤絵の技法つまり「吹屋弁柄」の使い方を修得したと考えられま
徳利の胴には粗衣をまとった中国風の文人が4人描かれていますが、そのうち三人の衣が「吹屋弁柄」の赤色で粗く塗られていて、呉須の黒色の上から塗られた「吹屋弁柄」がいかにも粗衣の感じを表わしています
この徳利にはその肩あたりを一回りする雷文(らいもん)が「吹屋弁柄」で細かく描かれています。おそらく、こうした細描を見て、伊三郎は網目文様、紗綾文、蕉葉文などを「吹屋弁柄」で線描することを考え付いたと考えられます