古九谷の呼称「古九谷」か「古九谷様式」か

2022年11月に行われた東京国立博物館(東博)の今井敦氏による講演を聴いていたとき、「古九谷」と呼ばれる磁器の産地は加賀(現、石川県)であり、「古九谷様式」とキャプションの付いた磁器の産地が必ずしも有田産の色絵磁器でないと知らされました。あらためて、「古九谷」を古伊万里の一部であるかのような呼び方が適切でないと見直されていった経緯を振り返ってみます。

1. 国会での論議「すべて古九谷様式というふうにすることは適切でない」

古九谷色絵竹叭々鳥文大皿 文化遺産オンライン (nii.ac.jp)

(上をクリックしてください)

現在、文化財オンラインでは「古九谷 色絵竹叭々鳥文大皿」と表示されていますが、今から11年前の平成23年(2011)7月23日の衆議院文教科学委員会において下記のような論議がありました。この背景には、平成19年、文化庁と九州国立博物館主催の日本のやきもの展において、重要文化財と指定された「古九谷」が“伊万里古九谷様式”と展示されたことを受け、展示者とか展示場所で呼び方をあえて替えたことで混乱を生みだしたからと思います。国会の答弁の概要は次の通りです。

【衆議院文教科学委員会での質疑概要】と

質問者 衆議院議員 馳浩(現、石川県知事)

答弁者 文部科学大臣 高木義明 政府参考人 文化庁長官官房審議官 吉田大輔

<馳委員> 文化財保護法では、文化財のうち重要なものを重要文化財として指定しています。その一つに「古九谷 色絵竹叭々鳥文大皿」があります。これを重要文化財に指定したときの古九谷とは学術上どのようなものを考えていたのか、お聞かせください。

<吉田政府参考人> ご指摘の「古九谷 色絵竹叭々鳥文大皿」につきましては、昭和27年3月29日に国の重要文化財として指定をしております。指定当時におきましては、一般的に、江戸時代初期に現在の石川県加賀市内で描かれたとされる色絵付きの磁器のことを、古九谷ということで認識をしておったところでございます。

<馳委員> 現在、東京国立博物館を初めとする独立行政法人の国立博物館では、古九谷を、伊万里古九谷様式もしくは伊万里焼として展示しています。これは、かつて石川県で制作されたと言われた古九谷が、すべて佐賀県伊万里、つまり有田で制作されたものと断定してのことと思いますが、こうした伊万里古九谷論争は、器と絵付け産地の問題も含め、近年の調査研究では反論資料も出てきており、決着していない問題です。この問題について、国立博物館では断定的な表示を行っていますが、これについてはどのように判断をしておられるのでしょうか。

<吉田政府参考人> 一般論といたしまして、独立行政法人国立文化財機構が設置する博物館において展示される文化財の表示につきましては、機構の責任において行われておるものでございまして、国として、それについてはコメントする立場にはないかと思います。

なお、この点につきまして、機構からは、ご指摘の表示については、関係学会における学術研究の成果などを踏まえまして、当時の肥前で焼かれたと考えられるものについては、産地を伊万里とし、分類を古九谷様式として表示したというふうに聞いております。

<高木国務大臣> 今の、重要文化財の指定が実際の展示物として表示されていないというのは非常にわかりにくいことで、私としては、ちょっと実態把握をしてみたいと思います。

<吉田政府参考人> その名称の中に産地名や分類名を示す部分が含まれている文化財につきましては、簡潔に、かつ観覧者にとってわかりやすく表示するという観点から、基本的に、これらの産地名や分類名を示す部分を区分いたしまして・・・江戸時代初期に九谷で焼かれた色絵磁器は、少ないながらも存在をしております。現在、古九谷とされております色絵磁器をすべて古九谷様式というふうにすることは適切でないとは思っております。

2.独り歩きした「古九谷様式」

この国会の論議より3年前の2009年 10月に開かれた、東洋陶磁学会における第4回研究会において今井 敦氏(東京国立博物館)が発表した『古九谷様式の色絵磁器について』をきっかけにして「古九谷」と「古九谷様式」とが分けて考えられるようになり、「古九谷様式」が独り歩きしたようです。その論文の一部を紹介します。

「古九谷問題の混乱の一因は、あまりにも多様な内容の磁器が「古九谷」の名のもとに括られている点にある。大河内正敏が提唱した「古九谷」から、その後、藍九谷、吸坂手、初期の輸出色絵などが次々と外されていったが、「古九谷」の枠組み自体を実証的に見直すことはなぜか行なわれなかった。そして残された五彩手、青手、祥瑞手の三種をひとまとめにしたままで「古九谷様式」と呼びかえたために、これらがあたかも一つの「様式」であるかのような印象を植え付ける結果となってしまった」

こうして、都内のいくつかの美術館では「古九谷様式」の解説や展示物のキャプションが見られるようになりました。

(1)2010年6月五島美術館学芸員によるギャラリートークにおいて

「肥前有田では、初期の作風は当時の中国景徳に青花に似るが、古九谷様式と呼ぶ独自の色絵磁器を製造し、その後は鍋島藩の管理のもと、国内で唯一の磁器窯として発展する。最も初期の色絵磁器である」

ただ、この説明を聴く前に耳にした下記の会話から、いまだ「古九谷様式」が何であるかを理解されていないと思われました。

お父さんは「古九谷の青は、本当に有田で焼かれたのかなあ・・・」といい、お母さんは「当時の有田の技術であったら、できたと思うわ」といいましたが、娘さんは「でも、この青や緑が有田にないから、それも不思議ね」

(2)2011年6月根津美術館の当時の副館長 西田宏子氏による講演で

古九谷産地論争に関連して西田宏子氏は未だはっきりしていないと述べていました。

「産地が伊万里であることを証明したいが、(発掘調査には多くの資金が必要で)資金不足でできていない」「素地の全部が全部、肥前のものでないといわれているが、決定的な結論は出ていない」「では、何と呼ぶか、古九谷様式と呼ばれることも考えられるが、今後の課題である」

3.平成25年(2013)ころに「古九谷様式」の呼称変更の兆し

文化庁と独立行政法人の国立博物館が何らかの議論があったのか不明ですが、平成25年(2013) 3月 に東洋陶磁42号に掲載された今井 敦著の『「古九谷」概念の形成と変遷について-「古九谷様式」の再検討-」の中で、今井氏は次のように述べ、加賀で九谷焼(再興九谷を指したと思われる)が造られることになったのは、「古九谷」が加賀固有の「伝統工芸」であったことによると指摘しています。

「東京国立博物館の前身である東京帝室博物館では、昭和6年(1931)と昭和9年(1934)に購入と寄贈によって古九谷を収集しており、おそらくこの頃には古九谷が古陶磁のジャンルとして認知されていたものと考えられる。このように見てくると、現在に通じる古九谷の概念の骨格が固まったのは、早くても昭和初期のことと思われる。「九谷」が加賀産の陶磁器の代名詞となったことからわかるように、「古九谷」は近代の窯業生産地である加賀にとって「必要とされた伝統」だったのである」

4.現在の美術館や博物館での表示はどうなっているか

根津美術館での現在の表示

文化庁が「一般論といたしまして、独立行政法人国立文化財機構が設置する博物館において展示される文化財の表示につきましては、機構の責任において行われておるものでございまして・・・」と答弁したように、美術館や博物館において独自の責任において適切な表示と説明がなされていると考えます。

現在の根津美術館のHPを見ると、上の画像のように「色絵山水文大鉢(青手)古九谷様式」と表示されていますが、11年前に当時の副館長西田宏子氏が「何と呼ぶか(中略)今後の課題である」と述べてから、調査研究した末に、「有田で1650年代に作られていたことが明らかになった」とコメントを加え説明していると考えられます。

齊田伊三郎 その1 “赤絵の村”の誕生

今も“佐野赤絵”と呼ばれる九谷焼が誕生した地は江戸末期に能美郡寺井村の一集落であった佐野の集落(現、石川県能美市佐野町)でした。明治時代に入ると、九谷焼といえば、赤九谷といわれたほど、特に赤絵細描の九谷焼が高く評価されましたが、その一翼を担ったのが“佐野赤絵”でした。その生産地“赤絵の村”が形成される道を開いたのが齊田伊三郎(晩年、道開と号す)であり、伊三郎を受け継いで“赤絵の村”を確立させたのが伊三郎の門人たちと窯元(素地窯の主)たちでした。

佐野の集落(以下、佐野と略す)は金沢までは約20㎞ですが、寺井村の中心部へは北西に約2㎞、小野窯へは南西に約1.8㎞、さらに2㎞ほど行けば若杉窯でした。近隣に二つの再興九谷の諸窯があり、寺井に開かれた九谷庄三の絵付工房から直ぐ近くの佐野で、齊田伊三郎によって創り出された“道開風”の赤絵が門人たちによって磨き上げられ、九谷焼全体に大きな影響を及ぼしたため、いつしか佐野を“赤絵の村”と呼ぶようになりました。

齊田伊三郎は寛政8年(1794)に佐野の農家に生まれ、16歳のとき、若杉窯で本多貞吉や三田勇次郎から薫陶を受け、さらに、有田焼や京焼の先進的な磁器生産地で陶芸を学びました。天保元年(1830)、36歳のときに佐野に戻ってからしばらくの間は、若杉窯や小野窯の間を通い、修得した技術をもってこの二つの窯元で陶芸を指導しました。その後、天保6年(1835)に佐野の自宅に絵付工房と上絵窯を開き、独自の画風と絵付技法を開発しました。合わせて、工房に教えを乞うてやってきた、松屋菊三郎(蓮台寺窯や松山窯を築いた)、牧屋助次郎(詳細不明)、高堂の磯吉(後の小坂磯右衛門)、大長野の文吉(後の東文吉)などのほか、佐野の若者たちに惜しげもなく陶画の技法を教えました。

彼らは、やがて独立して陶画工となりましたが、佐野の若者たちの中から“伊三郎の直弟子”と呼ばれた門人たちが育ち、早くて4,5年後、長くて8年から10年後に陶画工として独立しました。明治元年に伊三郎が亡くなる前に佐野で独立したのが、二代 斎田伊三郎、米田宋左衛門、多賀太三右衛門(弘化3年に独立に)、亀田平次郎(後の山月、文久2年に)、西本源平(慶應元年に)、富田平次郎(後の松鶴、慶應3年に)、今川間右衛門、三川徳平らであり、近隣で独立したのが高堂の小坂磯右衛門、大長野の東文吉でした。そして、伊三郎が亡くなった後に独立したのが、橋田与三郎(初代の与三郎、明治元年に)、道本七郎右衛門(明治3年に)、田辺徳右衛門、齊田忠蔵(実弟の子)らでした。初代 与三郎が伊三郎の亡くなった明治元年に他の門人たちより遅く独立したことには興味深いところがあります。

下図「明治五年居住地明細図」は明治5年の神社記録に記載された佐野の住居145戸の位置を示したものです。その記録には、農業の住居71戸のほか、窯元の住居5戸、陶画工の住居22戸、兼業の陶画工の住居2戸などがあったと書かれているようです。さらに「佐野町史」にはその145戸の住民名(二代・三代目も)が書かれ、齊田伊三郎(初代・二代)の住居、“伊三郎の直弟子”の住居のほか、橋田与三郎(初代)の門人であった西野仁太郎、三輪鶴松らの住居や亀田平次郎の門人であった亀田惣松、玉川清右衛門らの住居もあり、また伊三郎の指導で素地窯を築いた窯元たち(後述)の住居、明治20年以降に事業を開始した陶器商人たちの住居(石崎、増田、沢田、坂ノ下、東、山近などの家)もあります。そこで、それらの住居を明細図に色分けして表示してみると、文字通り、佐野の“赤絵の村”の姿が見えてきます。

上の明細図を見ると、齊田伊三郎の住居の周りには門人たちの住居があり、師弟が近隣に集まって暮らしていたことがわかります。門人たちは師から教えられた技術で絵付を繰り返し、その技量を高めていったことが想像できます。 “道開風”の様式を修得するには時間を要したと思われ、師弟が近くで住んでいたことは自分の上絵窯を持てなかった門人たちにとってよかったと考えられます。こうして、門人たちは師の伊三郎の住まいから近く良い環境の中で養成されたと思います。

こうして、伊三郎によって生み出され、門人たちが磨き上げた“道開風”はこれまでになく精緻で独特なものであったので、当時の多くの陶画工の間で高く評価され、自然と彼らの画風に影響を及ぼしました。それだけに、明治元年に齊田伊三郎が没した後、明治8年(1875)、橋田与三郎(初代)は“道開風”の絵付技法の維持とさらなる発展のために、亀田平次郎らと協力して「画工十五日会」を結成しました。その会は延々と継承され、昭和27年(1952)に絵付協同組合に吸収されるまで80年近くにわたり続き、“佐野赤絵”が今に伝わることとなりました。

もう一つ、齊田伊三郎が佐野に遺したのが素地窯でした。伊三郎は本多貞吉から陶芸の基本を学び、その後も有田や京の窯元で陶芸を修業した経験から、佐野赤絵のために素地窯を佐野に築くことを考えていたと考えられます。伊三郎は絵付工房で若杉窯、小野窯、松山窯(江沼郡)などの素地を使いながらも、佐野赤絵に最適な素地を模索していたと思われます。そうこうするうちに、佐野の与四兵衛山で磁石(佐野石)を発見したのを機に、伊三郎は集落の中川源左衛門に素地窯を築くことを勧め、ついに、安政5年(1858)に素地窯を完成させました。その後、中川源左衛門の窯に続き、三川庄助、深田仁太郎も築いたので、佐野には素地造りから絵付までの一貫した生産体制が整いました。

それらの窯元では、佐野石、花坂石、鍋谷石を運んできて、佐野用水の窯元共同水車小屋または八丁川の白崎家の水車小屋で粉砕しました。それぞれの砕石を坏土工場で坏土に加工し、用途や陶画工の要望に合わせてそれらの坏土の割合を変えて調合し、その坏土を使って熟練のロクロ師たちが成形しました。成形された素地は素焼きされ、その上に釉薬をかけて素地窯(本窯)で焼成され、その素地が陶画工に渡りました。

この素地造りにおいても、窯元と陶画工の住居が同じ集落の中にあったことから、陶工と陶画工が協力しながらもそれぞれの本領を発揮する環境が醸成されました。陶工と陶画工は話し合って、絵の具と相性の良い釉薬を調合して、剥離が起らない、滑らかで緻密な素地を造ることで協力し合いました。この共同体制は、明治元年に斎田伊三郎が、明治24年に中川源左衛門が亡くなった後も維持され、中村弥左衛門、南仁三郎、橋田庄三郎、高橋仁八、中村文太郎、宮本俊孝、三川庄助(二代)のいわゆる“窯元七軒”の登り窯が“茶碗山”の斜面に並んだといわれます。こうして、佐野に構築された生産体制から“赤絵の村”全体を“佐野窯”と呼ぶようになったと考えられます。

上述した窯元の一部の住居も明細図に青で示していますが、それらの住居が明細図の右隅の集落外れに固まっているのがわかります。素地窯は“茶碗山”の斜面を利用し、黒煙や防災のため一般の住居から離して築かれ、また広い敷地も必要であったことから集落の外れに集まったと見られます。ただ、佐野で最初の窯元となった中川源左衛門の住居が齊田伊三郎の住居の近くにあったのは中川源左衛門が伊三郎から築窯、坏土造り、釉薬について技術的指導を度々受けるためであったと考えられます。こうして、素地窯全体の技術が確立されたので、“窯元七軒”は素地窯の立地に適した茶碗山の斜面に築かれたと考えます。

佐野は古くからの集落でしたので、いろいろな職業を生業とする住居があったといわれますが、江戸末期から佐野赤絵の製造に係わる職人などの住居が増えていき、佐野が文字通り“赤絵の村”に形成されたと考えられます。ただ、佐野の“赤絵の村”ができた経緯が有田焼の“赤絵町”とは異なるように思われます。江戸時代に有田焼では柿右衛門の色絵そのものを“赤絵”と呼んだので、有田の中で絵付を集中的に流れ作業で行った区域を“赤絵町”と呼びました。素地は町の外から運び込まれ、絵付だけを行いました。柿右衛門のような窯元は有田では数軒しかなく、その陶技は門外不出でした。また、鍋島藩は絵付の技術が外部に漏れることを怖れ、絵付の職人には図案の一部分しか絵付させないようにしました。こうして、大勢の職人たちは赤絵町に閉じ込めて流れ作業の一部を担当したので、職人たちの絵付の技能が上がることはなかったといわれます。

これに対し、斉田伊三郎は、佐野の内外から集まった多くの門人たちに先進的な陶技を教え自らは“佐野赤絵”を創り出し、自由に“道開風”を伝える風土(赤絵の村)を醸成しました。現在、“佐野赤絵”の第一人者として佐野町で工房を開き、また門人たちの育成を励んでいる、福島武山さんが能美市制作のホームページで、齊田道開と“赤絵の村”への思慕を熱く述べられていますので、特に印象的な部分をここに引用させてもらいます。

『佐野は、赤絵が始まって200年足らずですけど、道開さんが若いときに自分の足で有田とか瀬戸とか、そういう所まで行って陶技を極め、この地で窯を開いて、そして赤絵を描き出したんですね。昔、佐野の村は赤絵の村っていわれたんです』

『私が佐野町に来た頃には数人が細々と赤絵付をしているだけでした。その当時、しばらくすると高度経済成長の波がきて筆を持って絵付けをするなんて、そういうたるい(=ゆるい)ことをしていても売上げが伸びないということで多くの人が筆を離してしまいスタンプとか転写に移ったんですけど、そこを私は手描きでやっていくと決めていたんです』

『以前のようにたくさんの職人さんはもう望めないと思いますが、産地能美市としていいものを作る人が育てば、人が人を呼んでいくと思います。(省略)その人たちはみなさん絵を描いていますから希望があります。能美市佐野町というのは、九谷焼ではほんとに大きな名前なんです』

 

引用資料

①「佐野町史」(昭和56年佐野町史編纂委員会発行)

② 能美市ホームページ「したいこと、能美市だったら叶うかも 九谷焼 福島武山さん」

参考資料

①「九谷焼330年」

② 図録「斎田道開と佐野赤絵展」

③ 「道開と赤絵作品図録」など

横浜九谷・神戸九谷の素地

九谷焼は石川県内で素地造りから絵付まで一貫しておこなわれ、明治時代には、“ジャパンクタニ”の名のとおり、日本を代表する彩色磁器として欧米から高い評価を受けました。この九谷焼が石川県の陶器商人の手によって主に横浜港、神戸港から輸出されると、その一部がそれぞれの港の近隣で製作されるようになり、産地名(この場合は絵付をした場所)を冠して横浜九谷、神戸九谷と呼ばれました。

それらの輸出九谷に使われた素地にはコーヒーカップなどの食器や万国博覧会に出品するような大型の花瓶などの真っ白で滑らかなものが求められましたが、明治初期の石川県内ではこれまで製作した経験がなく、当時の素地がいまだ開発改良の段階にありました。この“明治初期の素地事情”については、ウェブサイト九谷焼解説ボランティアの「3.九谷焼の陶工・陶画工・指導者・陶器商人-明治九谷を支えた陶工と素地窯」で述べられています。

そこで、横浜港や神戸港の近隣では、コーヒーカップなどの食器への需要が高まるにつれ、両港の近隣には素地の産地がなかったため、現地の陶器商人は有田、瀬戸、京都などから素地を運んできて絵付することを兼業としました。輸送費や成形の技術力を考えて素地の産地やメーカーを選んだと考えられます。例えば、有田の陶器商人 田代屋は、明治4年(1871)に横浜港で田代屋を開店させると、当初は有田か三川内の素地を使いましたが、成形技術のある瀬戸産の素地に九谷風の赤絵を絵付しました。その後、横浜焼の陶器商人の中でもリーダー的存在となった井村彦次郎も瀬戸産素地を主に使って九谷焼、有田焼などを融合した“横浜焼”を製作販売し成功を収めました。

横浜焼が盛んに製作、輸出されるようになると、石川県の陶器商人の松原勘四郎商店が明治8年(1875)に初めて横浜に進出し、少し遅れて、綿野吉二が明治12年(1879)に横浜港からパリへ向け九谷焼の直輸出を試みて横浜港からの輸出が有望であると見て、翌年に支店を神戸から移したのに続き、明治15年(1882)に綿谷平兵衛が、明治18年(1885)に織田甚三商店と綿野安兵衛が次々に支店を構えました。そして、綿野吉二を除いて、九谷焼の陶器商人は輸出業に加え絵付業を始めました。特に、織田と綿野(安)はエッグシェルタイプ(卵殻手)に適した素地(主な産地は三川内皿山)に幾何学的な模様を描いた食器を製作し欧米に販売しました。

そうした中でも、綿野吉二は石川県での素地造りと絵付にこだわりました。綿野は石川県産素地の品質が国産や欧州産に比べ劣っていたことがわかっていたので、八幡村の陶工 松原新助らとともに、これまでの素地窯をフランス式の円型窯に改築して、素地の品質を改良し、食器などの素地の規格化を図り、合わせて陶画の質も改善しました。こうして、明治20年(1888)ころから、横浜焼と比肩できるだけの九谷赤絵の製品を製作できるようなったと考えられます。“横浜九谷の真髄”といわれる花瓶が田邊哲人コレクションの中に収集されていますが、左の画像の花瓶(個人蔵)は、そのコレクションの花瓶と酷似していることから、おそらく、そのころに一緒に製作されたと考えられます。

一方、神戸港は、明治元年(1868)、横浜港に比べ8年程遅れて開港しましたが、横浜港では外国人居留地が造成されたのに対し、神戸港では外国人が日本人と一緒に住むことが許されたことから、外国人の衣食住に関わる商品やサービスを提供する商店が今の元町、栄町辺りに続々開かれました。明治7年(1874)年、神戸の商人 北儀右衛門は、元町通に宇治茶・珈琲・紅茶・九谷焼を売り捌く店舗「放香堂」を開店しました。北儀右衛門はコーヒー豆を最初に輸入した日本人であり、放香堂では“印度産珈琲”の豆を外国人向けに販売し、店頭でコーヒーの提供も行い始めたので、自然に、コーヒーカップも商品として扱うようになったと考えられます。

明治9年(1876)に、九谷焼の陶器商人 綿野源右衛門(綿野吉二の父)などが神戸に支店を開き、神戸港から九谷焼の輸出を始めていたので、北儀右衛門は陶器商人などから九谷焼のコーヒーカップを購入し、それを使ってコーヒーの提供をしました。おそらく、綿野吉二が明治13年(1880)に支店を横浜に移したのをきっかけに、コーヒーカップなどの食器に向いた素地を近くの素地の産地から購入し絵付することを始めたと考えられます。主に、瀬戸から素地を取り寄せ、能美・金沢の陶画工を雇い九谷風の絵付を行いました。こうして、九谷焼の他に薩摩焼、京焼に似た絵付が行われ、その陶画工のほとんどが石川県から移住した陶画工であったといわれ、明治30年頃には数百人になったといわれます。

左の画像は北儀右衛門製の製品「金彩色絵西王母に花卉文瓶」(神戸市立博物館所蔵)です。北儀右衛門は、明治15年11月刊行の『豪商 神兵 湊の魁』に載った挿絵を見ると、九谷焼の看板の文字が英語で書かれた店舗を開き、明治初期から地の利を得て発展した元町通に構えただけあって、九谷焼の販売が順調であったことがわかります。さらに、北儀右衛門の製品の中には、左の画像のように、赤絵と金彩で“西王母”(中国神話の女神)が描かれた一対の花瓶が、明治18年(1885)に東京で開催された共進会に出品し高く評価されました。その時の「共進会審査報告 陶器之部」には「神戸元町の北儀右衛門という人物が、九谷から絵付師を雇い入れ、九谷焼に金彩赤絵を施して出品した」という記載されています。そしてこの花瓶の高台内側には、明治九谷によく見られる、赤で銘が書き入れられ、この花瓶には「神戸/北造」と書かれ、「北」の下には「..」のようなマークが付されています。北儀右衛門の多くの製品には「神戸北造」の銘がありますが、「..」のようなマークは、北儀右衛門の開いた「加賀九谷焼売捌所」の軒先にかけられた暖簾にあった「北」の下の「..」が由来であるといわれます。

横浜焼、横浜九谷、そして神戸九谷の素地について述べてきましたが、そのほとんどは国産の素地を使った中で、北儀右衛門の製品には欧州産の素地を使ったものがあります。その素地は、「雪のような白い生地、しっとりとなじむシェイプは、一途なこだわりがあるボヘミア磁器」と宣伝したオーストリアのメーカーのものでした。

 

 

 

また、こうした欧州産の素地を使った例は、横浜焼、横浜九谷においても散見され、井村彦次郎の製品に、また明治8年(1875)に横浜に支店を設けた松原勘四郎商店の製品に見られます。左の画像の松原製の製品は、天保13年(1842)にフランス・リモージュ地方に生産工場を開き「リモージュ磁器の黄金時代」を築いたといわれる、アビランド社製の素地を使っています。

重くて壊れやすい素地を高い輸送費をかけまで神戸や横浜に運び絵付を行った背景には、未だ石川県の素地の品質が欧州産に比べ劣っていたことというよりも、前述の「雪のような白い素地、しっとりと手に馴染む形」の素地に横浜焼や九谷風の絵付をするように求めた顧客から要望されたと考えられます。これは、毎日手にして目にする食器には表面の手触り感や欧米特有の器形が欧米人から好まれ、真っ白な素地が選ばれたからと思われます。こうして、横浜や神戸の陶器商人は、外国人の食生活を見ているうちに、素地と器形に合わせて絵付するというデザイン力を重視し、一部は欧州から素地を運んでまで、多種多様な製品を製作販売するようになったと考えられます。

九谷焼の銘3.明治九谷の銘

明治九谷の銘は、すでに再興九谷で見られた角「福」の他に、製品名あるいは産地名の「九谷」、窯元名、陶画工名などに加えて、新たに、陶画工名の屋号という形を変え、あるいは、国号、堂号などが加わりました。

銘「九谷」

「九谷焼」という呼称が文政年間に生まれ、吉田屋窯を収めた箱に「九谷焼」と書かれ、同時に、製品そのものに銘「九谷」が書き入れられたことが始まり、それ以降、当時の諸窯に拡がりました。その後、窯元から独立した陶画工が自身の名前を製品に書き入れられました。これは、有田焼の生産方式と異なり、九谷焼の生産方式が素地窯とそれから独立した陶画工との分業が進んだことによると考えられます。

明治時代に入ると、陶画工の数も増え、銘「九谷」と陶画工の名前または屋号との組み合わせ、輸出九谷は国号など組み合わせられました。

例;「九谷/雪花」「九谷/雪山製」「九谷/秋山製」「九谷/相鮮亭造」「九谷/加長軒製」「九谷/開匠軒甚作製」「九谷/上出」「九谷製/亀田画」「於九谷/土井製/高田画」「九谷北山」「九谷/為吉」(二重角内)

銘「山号」

日本人にとって山は特別な存在でした。それは、山が多い日本では山を神の世界だと考え、日本人にとって古くから山が信仰の対象となり、生活のための非常に重要な存在であったからでした。古から、加賀の人々の間では白山が愛される山となり、また漁民や北前船の船頭は信仰の山であり、行先の標識のような存在であったので、自然に白山が崇高な山と見られ、明治時代の多くの陶画工が自分の屋号として「山号」を取り入れました。

例;「雪山」「陶山」「友山」「北山」「清山」「竜山」「逸山」「山月」「嶺山」「旭山」「嶺山」「美山」「江山」「喜山」「椿山」「卯山」「生山」「泰山」

銘「堂号」

堂号とは自分の家や書斎につける屋号でしたが、書道家、作家、茶人、画家、俳人、芸能人などにも多くの堂号があります。明治時代の陶画工の中には、自分の工房、絵付窯、陶磁器商店に「堂号」をつけました。

例;「雪山堂」「松齢/陶山/堂印」「三布堂製」「友山堂製」「北山堂」「松鶴堂」「九徑堂」「松雲堂」「北玉堂聚精」「芙蓉堂」

銘「国号」

「日本」に「大」を冠する慣習は古代から国内向けの名称として存在し、江戸末期になって「大日本」が外交文書に日本国の「国号」の一つとして使われましたように、対外的な国号に「大」を冠してこの号が使用されました。九谷焼に「国号」が使われたのは、万国博覧会に出品した作品に始まり、輸出九谷に多く見られました。

例;「大日本九谷/雪山堂製之」「大日本九谷/飯山製之」「大日本/九谷製/中埜画」

旧い国号「加賀」

加賀藩が江戸時代に加賀、能登、越中の3国の大半を領地として有し、そこで九谷焼が発祥した歴史を持つ石川県民は九谷焼を誇りに思い、明治九谷に旧い国名の“加賀”を国号として使ったと考えられます。加賀国に絡んでその中心地 金沢の旧い呼称「金城」も一部に見られます。

例;「金城/友山」「加賀国/綿野製/竹内画」「金城/竜山」

銘「署名」

九谷細字の書き手が文章(漢詩文・平仮名文)の末尾に署名として屋号を、器の内側の文章の末尾に書き入れました。

例;「九谷・清山書」「九谷/鏑木製・北山書」

特異な銘

「相鮮亭」「彩雲楼」「鬼仏」

その他の銘

窯元の銘;「九谷阿部製」「金城岩花造(共書き)」

陶器商人の銘;「九谷/陶源」「大日本/加賀国/九谷/打田製」「九谷/円中製/逸山画」「織田製」「九谷/鏑木」「九谷/酢屋製」「九谷/谷口製」「大日本/松原製」「加賀国/綿野製」「綿安」「於九谷綿平製」「綿谷製」

転写の銘;「大明成化年製」(矢口製の染付)「奇玉宝鼎之珍」(大聖寺伊万里)

1.明代磁器の銘と古九谷の銘

2.再興九谷の銘

九谷焼の銘 2.再興九谷の銘

江戸時代の末期に加賀藩や大聖寺藩で興った諸窯では、それぞれの目的や背景から築かれて窯元特有の製品が造られました。したがって、それぞれの銘も、古九谷(青手)の再興を目指した窯では角「福」などが多く見られた他に、窯のあった場所の名、窯主の名の銘に、製作年など加わった銘があります。やがて、絵付業を生業とした九谷庄三のような陶画工が現れると、ブランド品であることとか名工であることを示した銘が初めて書き入れるようになって、明治時代に引き継がれました。

1.春日山窯の銘

春日山窯では呉須赤絵写し、交趾写し、青磁、染付の鉢・皿・向付・徳利などの日用品を主に造り、九谷焼の歴史の中で初めて「金城製」「春日山」「金城春日山」「金府造」「金城文化年製」など、窯の築かれた地名や年代が銘として書き入れられ、それらの一部には二重角の中に入ったものがあります。

こうした銘が加賀藩から指示されたのか、京から招かれた青木木米が提示したのか不明ですが、春日山窯が加賀藩の藩窯であり、藩の中心地であった金沢を意味する「金城」や「金府」が銘として書き入れられたのは当然でした。また、木米が京の粟田口で制作した作品が粟田口焼と呼ばれたことから、加賀藩の中心地“金沢”で製作された製品であり、“春日山”の地で焼かれたことから、産地名が銘に取り入れられたと考えられます。

そして、京焼に「製作年代」を銘にしたものが残っているか不明ですが、製品の一部に製作年代を示す銘「金城文化年製」があるのは古九谷の小皿に書き入れられた「承應弐歳」と同様な意味合いが含まれていると思われます。

2.若杉窯の銘

若杉窯の製品は多岐にわたり、染付による鉢、皿、壺、甕、瓶、向付、香合、火入れなどの生活雑器に加え、赤絵細描の鉢や瓶、青手風の皿や瓶、伊万里風の鉢や瓶など様式も画風も多岐にわたりました。こうした製品の中で藩向けと思われる製品には銘が書き入れられ、二重角に「若」が入ったもの、その書き方が反対の左「若」(画像のとおり)、数少ないものの「若杉山」「加陽若杉」、製作者の三田勇次郎を表わす「勇」などがあります。恐らく藩向けでない生活雑器は無銘であったと考えられます。

以上のほか、窯の物原から、春日山窯で見られた製作年代の銘や製作者名が書かれた陶磁片が見つかっています。例えば「天保七年」「天保八年」などの書き込まれた天保年代製の色絵や染付の碗片、「天保十年初秋 願主 北市屋兼吉」銘のある染付瓶子(徳利か)片、「文政七年 橋本屋」銘の陶片、「天保三歳 施主 橋本屋 安右衛門」銘のある香炉片などが発見されています。このような銘が何を意味しているかは不祥ですが、考えられることは、「願主 北市屋兼吉」は北市屋兼吉から注文があったことを、また「橋本屋安右衛門」は窯の管理者(窯元名)が誰であるかを示そうとしたと見られ、こした陶片からは本来の銘の書き入れ方が試みられたことがわかります。

3.小野窯の銘

小野窯の製品は赤絵細描が主であり、赤に黄緑・緑・紺青・紫などを加えたもの、金彩を施したものがあり、その赤で黒味をおびていて独特の色合いを示します。画風は南画風であり、宮本屋窯や佐野窯が盛んであった時期と重なり、その繊細優美な趣から“姫九谷”の名で呼ばれ、小野窯がひと際高く評価されました。

このような製品には「庄七」(庄三の幼名)銘のあるもの、また二重角に「小野」の窯元名が書き入れられ、差別化を図ろうとしたように見られます。また、吉田屋窯が閉じられた後、なおも、粟生屋源右衛門・松屋菊三郎が古九谷青手の再現を追い求めていた時期の製品と考えられる「小野」銘の入った古九谷風青手の製品があったことも興味深いことです。やはり、銘入りの製品はその窯への高い評価を表わしたと見られ、この窯が素地窯と変容すると、無銘となったことの意味がわかります。

4.民山窯の銘

民山窯は、文政5年、加賀藩士 武田秀平が、春日山にあった本窯(春日山窯が遺したものと考えられる)で焼かれた素地に金沢の自宅に築いた絵付窯で越中屋平吉、鍋屋吉兵衛、任田屋徳次らの陶画工に絵付させ、その製品は天保年間(1830~1843)に金沢だけでなく近隣諸国にたくさん販売され、加賀藩の江戸藩邸跡からもこの窯の碗が発掘されたように高い評価を受けました。

こうした窯の製品に武田秀平の号である「民山」が銘として書き入れ、個人の号が使われたのは九谷焼では初めてでした。一方で、角「福」が書き入れられた製品がないといわれます。それは、角「福」が書き入れられた若杉窯の製品も藩内で使われ、藩外でも角「福」が書き入れられた肥前の製品が販売されていたので、それらと差別化を図ったと考えられます。弘化元年に秀平が没すると、この窯が閉ざされたことから、銘「民山」の製品が信用力のある製品であったことがわかります。

5.吉田屋窯の銘

吉田屋窯は文政7年に古九谷を思慕し続けた大聖寺の豪商 吉田屋伝右衛門によって築かれた窯元で、古九谷青手への伝右衛門の強い思入れから、江沼郡九谷村の九谷古窯(古九谷を焼いた窯)の脇で始まりましたが、1年後に江沼郡山代村にその窯を移転してから天保2年までの約8年間に、粟生屋源右衛門、本多清兵衛(本多貞吉の養子)らが尽力し、素地、絵の具、筆致に吉田屋窯独自の“新しさ”を加えた製品を造りました。その多種多様な製品には古九谷同様に二重角または一重角に入った「福」の銘が思入れをもって書き込まれたことから、当時から、古九谷青手が再現されたと評判となりました。

この銘「福」と共に特記されることは、毎年のように“年代銘”が書き込まれた製品が何点か造られたことです。創業記念を意味したとは考えられず、改良を加えて操業し続けたことを製品そのものでもって遺すためであったと見えます。

そして、“年代銘”と共に”九谷”が書き込まれた製品が遺っていることから、再興九谷の諸窯の中で吉田屋窯が文政年間に銘「九谷」を銘文の中であっても、初めて使ったことと合わせて、箱書きに書かれた「九谷焼」からも、当時、吉田屋窯の製品がそう呼ばれていたことがわかりました。

6.宮本屋窯の銘

宮本屋窯は、吉田屋窯の跡を受け継いで、天保3年から安政6年までの約27年間、独自の製陶を続けました。この窯では、吉田屋窯で見られなかった白色でやや青みを帯びた素地に、陶画工の飯田屋八郎右衛門が赤絵細密画を全面に絵付したことから、その製品を八郎右衛門の名前からとって「八郎」あるいは「八郎手」と呼ばれ、人気を博しました。

しかしながら、そのような評判の製品であっても、当時、いまだ陶画工の名前が銘に書き入れることがなく、代わりに、製品の陶画工が文書に書き残したといわれます。ただ、そうした文書はほとんど残っていないのですが、八郎右衛門は「八郎墨譜」を書き遺しました。その墨譜は一般的な絵手本と異なり、八郎右衛門が製作した製品ごとに図案、文様などが克明に記載されている上、製品に書き入れた銘についても記載されているといわれます。

それによると、銘には一重角または二重角「福」の銘が多く、その他に楕円の中に入った「九谷」、文字のみの「九谷」などが記載されています。これからも、吉田屋窯以来、銘「九谷」が継承され、当時の再興九谷に普及したと考えられます。ただ、墨譜には、吉田屋窯にあったような“年代銘”とは異なり、ほぼ1年前に製作された製品について記載があり、中には“記載した年”も書かれ、しかも順番に綴じられたと見られるので、製品ごとに製作年が推定できるといわれます。

7.佐野窯の銘

佐野窯を開いた斉田伊三郎の作品として伝世されている製品には、当時、すでに九谷焼の銘として広まりつつあった二重角に「福」のほかに、二重角に「九谷」の中を赤や緑で塗り潰した銘が書き入れられました。ですから、伊三郎の窯から独立する前の高弟も師である伊三郎の銘の入れ方を倣ったように見られます。

同時代の九谷庄三のように「九谷」と自身の名前と組み合わせた銘の入った伊三郎の作品はいまだ見つからないといわれます。この理由として考えられるのは、伊三郎の陶歴との関係があると考えられます。伊三郎は20数年間にわたり、主として製陶の技術について研鑽を重ねました。先ず、16歳のとき、若杉窯で本多貞吉から製陶を学び、21歳から5年間ほどは山代の豆腐屋市兵衛のところで南京写の染付の技法を習得してから、再び若杉窯に戻り三田勇次郎から赤絵を学びましたが、勇次郎が若杉窯から去ると、再び、遊学を始め、4年間ほど京の清水焼の名工 水越与三平衛のもとで製陶と絵付の技法を、さらに、肥前の窯元 宇右衛門のところで伊万里の製陶、築窯、焼成法を究めてから、諸国の陶業地を歴遊して、天保元年、36歳のとき、郷里の佐野村に戻ってきました。

ところが、伊三郎が帰郷するや、若杉窯の橋本屋安兵衛から招かれ、若杉窯の拡充を頼まれ、同時に小野窯でも製陶、絵付の技術向上に携わりました。小野窯の赤絵に伊三郎の画風に似たものが見られるのはこのときのものと考えられます。その後、伊三郎は、天保6年、40歳のときになってから独立し、佐野村で絵付窯と陶画塾を開いて、佐野赤絵の基となった絵付技法(赤絵金彩の二度焼)の開発、図案や文様(百老図、網手)の考案に加え、陶画塾勢の塾生に赤絵の技法を教え、明治元年に亡くなるまでに多くの門弟を育成しました。伊三郎は陶画工としての作品を多く遺すことよりも、佐野赤絵の開発者であり指導者であることに徹したため、同時代の九谷庄三のように自身の銘のある作品を遺すことがなかったと考えられます。

8.九谷庄三と庄三工房の銘

九谷庄三は、天保3年、17歳のとき、同時代の斉田伊三郎とは正反対に、小野窯で絵付の才能を発揮し、早くも銘「庄七」(庄三の幼名)のある赤絵のほか、庄三の手によるものと思われる赤絵を次々に製作しました(後世、この赤絵を“姫九谷”と呼ばれました)。

その後、庄三は加賀各地の窯を遊学したのち、天保12年、26歳のとき、寺井村に戻り、絵付工房と絵付窯を開き、40余年に及ぶ絵付業を開始しました。庄三の絵付業は素地造りとの分業を図って大量生産を可能とさせ、庄三は最盛期には200人とも300人ともいわれた大勢の工人を抱える工房の経営者となりました。そこで、工房を代表するために製品に「九谷/庄三」(/は二行書きを意味する)を書き入れる必要が生じたと考えられます。

九谷庄三の銘を追って見ると、初め「庄七」または角「福」に「庄七」の組み合わせから始まり、角「福」に「庄三」になり、さらに角「九谷」に「庄三(小文字)」へと変化しました。すでに、文政年間に九谷焼という呼称が吉田屋窯の製品に使われ、銘文の中にも「九谷」もあったことから、庄三工房でも“九谷焼を作った庄三という意味でこの形式を取り入れたと考えられます。

その後、明治に入り苗字を名乗ることが許されると、庄三は姓名を“九谷”と名乗り、姓名と同じ一行書きの銘「九谷庄三」を一時使いましたが、庄三工房の製品の銘に「九谷/庄三」を書き続けました。庄三が製品を大量に売ることができたのは、この銘が製品に“ブランド力”をつけさせ、国内外から人気を博したといわれます。こうして、明治九谷の陶画工の多くが「九谷」と名前または屋号を組み合わせたことから、銘「九谷/○○」の形式が広がったと考えられます。

ただ、庄三工房の使った銘の持つブランド力が流用されることになり、今でも銘「九谷/庄三」の製品の真贋が問題になっています。工房で製作された製品は九谷庄三とその高弟によって監修され「庄三風」の画質が維持されていたので、高弟が書き入れた銘であっても“九谷庄三(工房)が制作したもの”と見なされたといわれます。かえって、それが庄三の生前から、銘「庄三」の書き入れられた贋作が横行することになり、さらに、庄三が明治16年に歿して工房が自然消滅したことに乗じて、工房にいた一部の工人や一部の陶画工も銘「九谷/庄三」を入れた製品を造りだしたため、銘「九谷/庄三」の模倣品がたくさん出回ることになったと考えられます。

9.連代寺窯の銘

蓮代寺窯は古九谷の再現のために粟生屋源右衛門と松屋菊三郎によって築かれました。菊三郎は13歳のころ、源右衛門に師事して製陶を学び、大いに薫陶を受けましたが、その後も各地で修業し製陶の経験を積んで故郷に戻ると、すでに吉田屋窯が閉じられて古九谷風青手が途絶えていたため、その再現に向け、吉田屋窯から戻っていた源右衛門が陶器を焼いていた窯を源右衛門から指導を受けながら、磁器の素地窯として改造し、絵の具についても学びました。

二人はこれまで再興九谷の諸窯でできなかった古九谷のような白磁の素地に九谷五彩で絵付することを目指しました。次第に白磁の素地に改良され、九谷五彩で絵付された呉須赤絵風の製品、古九谷写しなどが造られるようになりました。そうした製品には古九谷の再現銘に倣って二重角に「福」の銘を書き入れました。中には判読できない字の銘(「寫」のように見みる)のものがありますが、古九谷の写しを意味したと見られます。

10.松山窯の銘

松山窯は、嘉永元年に、江沼郡松山村(現在の加賀市松山町)に大聖寺藩の藩窯として築かれ、“松山の御上窯”と呼ばれました。小松の蓮代寺窯で古九谷の再現の取り組んでいた粟生屋源右衛門と松屋菊三郎によって、当初は藩の贈答品のために古九谷青手風の製品を造りました。二人は藩内の九谷村・吸坂村・勅使村などの陶石、陶土を原料とした素地を造り、それに源右衛門や菊三郎の手によって古九谷青手風の絵付がされ、銘も二重角に「福」が踏襲されました。

しかしながら、藩が山代の九谷本窯(宮本屋窯を買収してできた窯)に財政支援を集中したため、松山窯の保護がなくなると、この窯は民営に移り、大蔵寿楽、浜坂清五郎、西出吉平、北出宇与門、山本庄右衛門らの陶工によって良質の素地が造られ、陶画工には永楽和全、中野忠次らが迎えられて作陶が続けられました。その当時の画風を取り入れた製品が明治5年頃まで造られ、当時すてに普及していた「九谷」「九谷製」の銘を使い、さらに「永楽」「大日本九谷製」などの銘が加わりました。

11.九谷本窯の銘

九谷本窯は、万延元年、大聖寺藩が藩士 塚谷竹軒、浅井一毫を起用して藩が直営する窯とするために元宮本屋窯を再利用した窯です。江沼地方の風土には吉田屋窯、宮本屋窯などに見られる、創意に富むものを創り出した気風が遺り、そこで育まれた熟練工がいました。こうしたことに着眼して、九谷焼を殖産興業の中心にさせようとした政策が施行されました。窯名も九谷焼の原点であることを意味した“九谷本窯”と名付けました。

藩はこの窯の経営を早く軌道にのせるため、慶応元年、京の永楽和全とその義弟 西村宗三郎が招かれました。和全は3ケ年(契約期間)の間に、素地を精良なものに改良し、形状、絵付などに改善と工夫を加えた製品を造り、独自の味わいある新しい画風を加賀の陶磁器に吹き込んだといわれます。こうしたことから、この窯は“永楽窯”と呼ばれ、製品の評判も上がりました。

この窯の製品には、「於九谷永楽造」「於春日山善五郎造」「於春日山永楽造」など、“和全”の名と“地名”を取り入れた銘が多く見られました。他に「春日山」「永楽」などの銘印を捺したものもありますが、この「春日山」は金沢の春日山窯を意味するのではなく、山代温泉にある春日山のことを指しました。

1.明代磁器の銘と古九谷の銘

3.明治九谷の銘

九谷焼の銘 1.明代磁器の銘と古九谷の銘

1.中国での銘款の発展

明代以前の宋・元の時代にも正式な官窯があったものの、官府から指定された民窯が官用製品に“官”“供御”“御用”の字を彫りつけ、民生品と区別するだけの記号のようなもの(識款という)であったので、これは銘ではないといわれます。

その後、明代に官窯で銘が初めて使われたのが永楽官窯で、四文字の染付や銘印の“永楽年製”でした。ただ、その銘文“永楽年製”が器の内部中央の花模様の中に紛れて書き入れてあるなど、銘であることを隠しそうとしたと考えられます。ですから、永楽官窯製とされる磁器の底部や内部中心に堂々と書かれた“永楽年製”は後世の工人が写したといわれます。

次に、宣徳官窯になると、僅か10年の間に、“銘文を入れない”→“記号のような銘文を入れる”→“「宣徳年製」の銘文を入れる”、といった変遷がありました。それでも、銘を記した場所がいまだ一定してなかったので、宣徳官窯では銘文の雛型ができた段階であったといえます。また、銘文“大明宣徳年製”を壺の肩部に染付で書いた理由は宣徳官窯で製作された壺の底部が砂底であったためであって、器の表面に書き込まれていても、それは銘と認められています。

さらに、官窯が移っていくと、一国の陶磁器は一つの窯“景徳鎮”に生産が委託されたので、その銘は窯元名や産地名よりも「大明万暦」「大清乾隆」などの製作年代や聖人賢人を示す銘が重視されたといわれます。こうして、成化官窯は宣徳官窯での銘の形式を継承し、銘の様式が統一されました。印章式銘、銘を書くための“専人専任”の制度が生まれ、この制度は特定な時期と製品を除いて清末まで景徳鎮官窯で継承され続けました。

2.伊万里の銘

日本での銘は、室町時代の備前焼、桃山時代以降の楽焼や京焼などの陶器に始まり、京焼では“銘印”が発達し、京焼の祖といわれる仁清は堂々たる“銘印”を使いました。

一方、磁器の方では、江戸時代の初め、鍋島藩が有田泉山の陶石を使って明代の磁器を模倣したことから、多くの銘も明代磁器の銘をそのまま写しました。当時、泉山で製作された磁器には“有田”とか“鍋島”とかいった制作した窯元名や地名ではなく、明代磁器の銘「大明成化年製」「大明嘉靖年製」などの年号や、それらの変化した「太明年製」、そして一般的な吉祥文であった「富貴長春」「福」などを書き入れました。

ですから、江戸時代の肥前磁器には、柿右衛門窯や今右衛門窯のように、陶画工、窯元、製作年代などがわかる銘がほとんどなく、明清代の銘をそのまま写すということが明治初期まで続けました。この理由は、明清代の官窯と同じく、鍋島藩が、有田町とその周辺の保護地域で素地窯と16軒の赤絵屋(有田における上絵付け専門の業者のこと)に分業させて、技術流出や製品の密輸を防止するため、一か所の窯元で一貫生産することを行わなかったので、製造窯元とか製作者の銘を書き入れる必要がなかったからと考えられます。

3.古九谷の銘

加賀藩の支藩である大聖寺藩は江沼郡九谷村(現、加賀市九谷町)の九谷古窯で中国磁器の染付や色絵磁器に倣って古九谷を製作しました。当時の武家茶人が明代磁器に憧れていたように、大聖寺藩で製作された古九谷にも明代磁器の銘「五郎太夫」(五郎太夫は染付磁器をつくった陶工名)「大明成化年製」「福」が書き込まれ、その他にも「祐」や不可解な篆書文字がありました。

銘の中で最も多い銘は一重角または二重角の中に書かれた「福」で、その字体は楷書・篆書・隷書、あるいは変形の字体などで書かれ、字の色が黒呉須、赤、染付などで書かれています。さらに、そうした銘の上を黄彩や緑彩で塗り埋められたものもあります。このような古九谷の銘は、数十年の間に入れ替わった複数人の陶画工(藩士であったといわれます)によって書き入れられたと考えられ、職人が決められたとおり銘を書き入れた肥前磁器と異なり、古九谷の陶画工の学識や個性が画風と合わせて銘にも表れたといわれます。

2.再興九谷の銘

3.明治九谷の銘

 

九谷焼の銘

「銘款(めいかん)」とは陶磁器に見られる製作者、製作窯元などの銘のことを意味し、通常、銘と呼ばれます。それは陶磁器の発展に伴って生まれたといわれ、中国では宋元の時代にその原型が生まれ、明代に「大明万暦」「大清乾隆」の銘の形式が完結しました。日本では陶器に始まり、仁清の堂々たる“銘印”が生まれ、伊万里で中国磁器の銘に倣って「大明成化年製」や「福」が器に書き入れられました。

一方、古九谷が明代磁器の銘に倣って多くは「福」を書き入れましたが、江戸末期の再興九谷が製作窯元、産地などの名が高台内に書き入れられ、さらに、明治になると、「大日本」のような国名や「九谷」「加賀」のような産地名、それらに製作者名(屋号)を加えた銘が書き入れられるようになりました。伊万里の銘と、再興九谷以降の銘との違いはそれぞれの生産形態の違いから生まれたと考えられます。

1.明代磁器の銘と古九谷の銘

明代に官窯での銘が初めて使われ、それに倣った伊万里や古九谷では主に角「福」が高台の中に書き入れられました (解説に続く)

2.再興九谷の銘

江戸時代の末期に加賀藩や大聖寺藩で興った諸窯は、それぞれ異なる目的や背景から築かれたので、窯元特有の製品が造られ、したがって、銘にもそれぞれに特色の銘が見られます (解説に続く)

3.明治九谷の銘

明治九谷の銘は、すでに再興九谷で見られた角「福」、産地名、窯元名、陶画工名などに加えて、新たに、陶画工名が屋号という形を変え、あるいは、国号、堂号などが加わりました (解説に続く)

明治九谷と横浜焼

明治時代に横浜港の近くで焼かれた横浜焼がどういう磁器製品であったかを物語るものとして、横浜焼のリーダー的存在であった陶器商人 井村彦次郎が横浜港の外国商館(明治政府より特許を受けた日本人の商人のみが外国との交易をおこなった商業施設)向けに出した広告の中で横浜焼を「薩摩風、京都風、九谷風、瀬戸風など、さまざまなスタイルで絵付された製品」と説明しています。そして、この横浜焼が欧米へほとんどが輸出されたので、近年、里帰りした横浜焼のコレクションを中心に研究が進むにつれ、明治九谷との関係もわかってきました。

横浜焼の特色

上述したように、横浜焼が当時の輸出磁器の主流であった明治九谷や薩摩焼の画風に、東京焼が取り入れた墨彩(水墨画の墨特有の力強さに水彩の美しさが加わり華やかな仕上りとなった絵画)あるいは粉彩(洋絵具を用いてグラデーションや絵画的な表現をした絵画)などの絵付技法を融合させて、横浜焼という新たものに組み替えられた磁器であったと考えられます。

それに加え、横浜焼が温雅で淡く描いた日本画のような雰囲気を醸し出したのは、横浜焼の陶器商人や陶画工が、万国博覧会事務局が編纂した「温知図録」からモチーフを多く得たからと見られます。この図録は事務局の納富介次郎が中心となって編纂されたもので、工芸品の日本的デザインを各地の産地に奨励するためのもので、この図録を参照して、横浜焼は淡い色彩と多彩な洋絵の具、墨彩や粉彩の技法、奥行感を出す背景の描き方などを取り入れて、日本画を磁器の上に絵付したようなものに仕上がったと考えられます。

ですから、井村彦次郎の製品にも、日本画の墨彩によるものもあれば、西洋画の粉彩によるものが見られます。変化する欧米人の嗜好に合わせて、白素地の上では赤や金などによる装飾的な絵付が抑えられ、墨彩で描かれた風景画や花鳥画が絵付され、あるいは風景画には奥行き感のあるスケッチ画のような絵付が見られます。

また、他の陶器商人の製品にも、日本の風俗や花鳥などを題材に、外国人の嗜好を映しとった瀟洒で繊細な絵付が見られ、明治九谷や薩摩焼のように随所に金を多用した豪華な絵付というよりも細部だけに金彩を効果的に取り入れています。また、「鳥獣人物戯画」やおとぎ話から飛び出て来たような、ユーモラスさを誘う亀、梟、兎、蛙などのデザインも外国人の嗜好であり、明治九谷や薩摩焼(SATSUMA)を見飽きていた外国人の目にはより日本的と映ったと思われます。

横浜焼の製作

開港されたばかりの横浜港の近隣には、磁器の原料の産地があったわけでなく、もちろん、瓦や陶器を焼く窯すらなかったところでしたので、横浜港に進出した陶器商人らは瀬戸、有田から素地を購入し、有田焼、京焼、九谷焼、瀬戸焼などの顔料を買い入れて港の近くで絵付だけをするという方式で横浜焼を製作しました。彼らは明治九谷のように産地から輸送するよりも輸送費、破損のリスクなどが軽減でき、また変化する嗜好やクレームにも即座に対応できました。この方式には経済合理的メリットがあり、今でいう“地産地消”の生産方式でした。

特に、“瀬戸素地”(瀬戸で製作された磁器用の素地)を主に使ったことが、横浜焼の発展につながったと考えられます。明治6年(1873)のウィーン万博に参加するため博覧会事務局附属磁器製造所(後に東京絵付で有名となった東京錦窯となる)が開設され、全国の工芸品の産地に対し製品製作の手引書(素地の仕様や図案など)を配布して万博への出品物を管理するとともに、素地窯を持たなかった当の磁器製造所では厳選された有田、瀬戸などの素地に名工が絵付した作品を万博に出品し成功をおさめました。

そこで、瀬戸は有田より東京・横浜に近く、輸送費が少なく済んだことに加え、技術力のある産地でしたので、磁器製造所の成功を見て横浜焼でも多く使用されるようになったと考えられます。瀬戸の技術力の高さを示す事例として、江戸時代末期に初めてコーヒーカップを製作した時、瀬戸では伏焼(ふせやき 器物の口辺を下にして焼く方法)という焼成を考案し、窯の中で起こった取っ手の重みによるカップの歪みを解決しました。さらに、明治6年(1873)に開催されたウィーン万博に派遣された納富介次郎が持ち帰った石膏型による鋳込み成形の技法を九谷焼より10年以上も早くに導入し、均一な素地を製作するなど、瀬戸素地の品質の高さによってエッグシェルタイプ(卵殻手)の製品ができたといわれます。

横浜焼を興した陶器商人

明治政府が明治初期に万国博覧会で高い評価を受けた国内各地の陶磁器の輸出を奨励したことで九谷焼、有田焼などの伝統的な産地では“超絶技巧の美術工芸品”の輸出が盛んに行われました。一方で、横浜港の外国人居住区の商館からは外国人の嗜好に合わせたテーブルウエアが買い求められました。

そこで、横浜港近くの日本人街に外国向けの磁器製品を取り扱う陶器商人が集まるようになり、井村彦次郎のように大勢の陶画工を抱えた絵付工場を建てるものも現れました。今では想像もつかないほど、横浜焼や九谷焼などの磁器製品が横浜港から輸出されたことから、当時、横浜港が磁器製品の一大産地として外国に知られるようになったのも陶器商人や陶画工が精力的に活動したからと考えられます。

横浜港に進出した横浜焼の陶器商人として、明治4年(1871)に有田焼の田代屋(田代助作)が開店したのを皮切りに、明治8年(1875)に井村彦次郎(松下屋)、明治18年(18875)に加藤湖三郎(日光商会)が進出しました。明治20年代に陶器商人の数が急増し、名古屋絵付の滝藤萬次郎、山下民松北川喜作川戸房次郎中村鎗次郎塩谷加太郎らが活躍し、さらに、明治30年代には高坂藤右衛門島田金次郎らの陶器商人が登場し、高山一二上木堂(辻長右衛門)のように陶器商人であり絵付業を営むものまで現れました。

横浜に進出した明治九谷の陶器商人

一方で、横浜港の陶器商人仲間に加わった明治九谷の陶器商人には、明治8年(1875)に松勘商店が初めて進出しました。少し遅れて、綿野吉二が明治13年(1880)に神戸から移ってきました。綿野吉二は明治10年(1877)に父 綿野源右衛門の跡を継ぎ、明治12年(1879)にパリに九谷焼の直輸出を試みるなど、横浜港からの輸出を有望視して進出したとみられます。他には、明治15年(1882)に綿谷平兵衛が、そして明治18年(1885)に織田甚三商店綿野安兵衛が支店を構えました。織田と綿野(安)はすでに万博で高く評価されていた横浜焼の“エッグシェル“の素地に幾何学的な模様を描いた食器を扱いました。

特に注目されるべき陶器商人は綿野吉二で、彼は買弁(外国の貿易業者の仲立ちをする者)を通さず、直輸出をすることを実現させました。後に第一高等学校(東京大学)校長となった加賀藩出身の今村有隣の留学経験や西洋の経済知識を生かして、横浜港からフランスへの直輸出の道を開くとともに、パリを拠点とするヨーロッパでの拡販に努めました。また、京浜地区の同業仲間と共に日本貿易協会を設立し、明治15年(1882)には陶商同盟の頭取となり、九谷焼のみならず、横浜焼の輸出にも大きく貢献しました。

明治九谷との関連

横浜九谷;石川県から進出した陶器商人の多くは、高い評価を受けた横浜焼独特の画風(墨彩、粉彩など)を取り入れて明治九谷を石川県あるいは横浜で製作し、それに「九谷」銘を書き入れて輸出しました。こうしたことから、外国商館の商人はそうした明治九谷を“横浜九谷”と呼んだといわれます(薩摩焼も“横浜薩摩”といわれました)。綿野吉二が横浜焼の陶器商人、陶画工と協力して双方の画質を高めることに努めたので、次第に九谷焼が横浜焼の一部ととらえられるようになったことが考えらます。外国商館の商人も“横浜九谷”に明治九谷との融合があったことがわかったようです。

田代屋(田代助作);田代屋は有田焼の陶器商人 田代紋左衛門が万延元年(1860)から有田焼輸出の利権を専有して有田焼の貿易商の鑑札を受け輸出を始めましたが、明治4年(1871)に長男の田代助作が横浜港で田代屋を開店しました。田代助作も父が三川内(長崎県)の品質高い素地に有田で絵付をした製品を輸出したと同様に、当時、横浜港で輸出が始まっていた明治九谷を目の当たりにして、当初は有田か三川内の素地を使ったものの、やがて他の陶器商人と同様に“瀬戸素地”に人気のあった九谷風赤絵を絵付して井村彦次郎の製品や横浜九谷より廉価な製品を製作し輸出し、明治九谷と同様に好評を得ました。

滝藤萬二郎;名古屋絵付の陶器商人 滝藤萬二郎は横浜港に進出し、“瀬戸素地”に九谷風の絵付を施した金襴手で名を馳せました。亀甲文、花文様を細密に描き、盛り上げの技法でレリーフのように浮かび上がった文様を得意としました。

山本祥雲;山本祥雲は、慶応3年(1867)武蔵国(現、神奈川県)橘樹郡(現、川崎市)に生まれ、17才のとき横浜に出て桑原湖山から絵画を学び、やがて絵付業を始めました。井村彦次郎の絵付工場で陶画工としても活躍しました。また、明治27年(1894)、27歳のとき、明治九谷の名工といわれるようになる島崎玉香と共に横浜陶器画奨励会にて優等賞を受賞しましたことから、島崎玉香との親交が始まりました。翌年、山本祥雲は東京に出て、荒木寛畝(幕末から明治時代に活躍した絵師で、濃密な色彩と細密な描写による花鳥画を得意とした)、松本楓湖(幕末から大正時代に活躍した絵師で、濃彩華麗な花鳥画、多彩な歴史画、口絵を得意とした)に師事し、花鳥山水の日本画家として作品を残しました。晩年、石川県能美市へ移住して、初代 武腰泰山、島崎玉香らと交流し、制作活動を続け、また門弟もいたといわれます。島崎玉香との交流によって双方の作品には影響し合うところがあったと考えられています。

高山一二;高山一二は、金沢に生まれで、荒山彌惣次の門弟となり絵画を学び、18才になって東京で絵付業を始め、その後、横浜焼の井村彦次郎のところに移りました。井村の製品に「高山画」銘のスープ入れがあり、それには八郎手の赤絵金襴手の花鳥画が描かれ、他にも九谷風の意匠を絵付したといわれます。

加賀の焼き物 ③ 古九谷から明治九谷まで

九谷焼の誕生

加賀藩三代藩主 前田利常は越中瀬戸焼の製作を進めた一方で、有田で磁器の製作が始まったことを知ると、磁器の製作に強い関心をもち、磁器の製作に取りかかった。利常は、豊かな藩の財源をもとに、加賀伝統工芸の振興を推し進め、書籍の収集をはじめ、城郭、造園、社寺の建立再建(瑞龍寺、那谷寺など)などを行い、また、東西の都を背後にした立地を活かして、茶道、刀剣、絵画、蒔絵などでの著名人を招くことで、金沢を江戸にも勝るとも劣らない文化の中心地にしようとした。

特に、海外より長崎や平戸にもたらされる貴重な文物を収集し、中でも、裂(きれ 中国の元・明・清時代に中国などで製作された金襴・緞子(どんす)・錦など)などの染織品、陶磁器(中国、朝鮮の陶磁器のほか、東インド会社を通じオランダのデルフト陶器も含まれる)などに興味を持ち、肥前鍋島藩の肥前平戸や長崎に家臣を常駐させて、それらを買い集めた。これは磁器の製作に備えるためであったと考えられる。

加賀の伝統工芸文化を終生希求した利常が“焼き物”の中でも最高の美と技術をかたちに表現する色絵磁器を求めたのも当然の成り行きであった。寛永16年(1639)、利常は、47歳で隠居したとき、加賀藩を、加賀本藩、利常隠居領、富山藩、大聖寺藩の四つに分割し、富山藩では兄 利長が遺した越中瀬戸焼を保護し続け、自分の隠居領では蓮代寺瓦窯を築き(本意は加賀本藩でも陶器窯を開くことにあったとされる)、そして、大聖寺藩の九谷村で彩色磁器を焼くことを推し進めた。(加賀本藩では、五代藩主綱紀のとき金沢の大樋焼が始まった)

こうして、大聖寺藩主前田利治は、明暦年間(1655-1658)、利常の支援の下、九谷村で彩色磁器の焼成を始めた。しかしながら、鍋島藩は藩外への磁器製造技術の流出を厳しく禁じていたので、古九谷の誕生には諸説が考えられ、有田との産地論争にまで発展した。その中には、鍋島藩との婚姻関係などを考慮すれば、有田の磁器焼成技術、素地などの移入(購入)が一定期間できたという契約説、有田から追放された中国人陶工を秘密裏に受け入れた中国人陶工説、京焼の色絵陶器の製造技術を発展させた仁清説(古九谷にある様式の一つである仁清手から発想されたようである)など古九谷の誕生には諸説が生まれ、未だ不明なのである。合わせて、突然に古九谷が廃絶されたことなど、多くの謎に包まれている。(誕生についての諸説について後述する)

再興された九谷焼(再興九谷)

この古九谷の廃絶から百数十年後の江戸末期になると、生活水準の向上に合わせて磁器や陶器への需要が高まると、藩自体の財政を圧迫するようになり、そのために金沢にて春日山窯が京の青木木米を招いて磁器の開窯がされ、続いて、加賀藩士武田秀平による民山窯も構築され、広く普及した。さらに、木米と共に京から来た本多貞吉によって能美郡で若杉窯が開かれると、陶石の発見とあいまって、良質の九谷焼が製作された。その後も次々と、小野窯、松山窯、連代寺窯が開かれ、中には名品と呼ばれる作品も製作され、名工と呼ばれた陶画工が多く誕生した。その中には斉田道開、九谷庄三、松屋菊三郎などがいた。

こうして、一時は廃絶した江戸初期の九谷焼が諸窯において再興されたのが再興九谷であった。特筆されるのが、文政年間(1818-1829)、古九谷青手の再興という浪漫をもって古九谷の再興に取りかかったのが、大聖寺藩の豪商 四代吉田屋伝右衛門が粟生屋源右衛門、本多貞吉らの協力を得て成し遂げられた吉田屋窯であった。さらに、この窯の持ち主が変わって宮本屋窯となると、飯田屋八郎右衛門が生み出した八郎手と呼ばれる赤絵細描が人気を博したが、明治時代になってその赤絵細描が浅井一毫らに継承された。

多くの名工を生んだ明治九谷

再興九谷で生まれ再現された様々な様式が明治九谷に受け継がれた。明治期になると、政府の殖産興業政策の下で各地の美術工芸品を大量に輸出するように奨励された。九谷焼の産地にとって幸いであったことは、江戸末期に斉田道開、九谷庄三らによって、本窯で素地を製造する業者と大勢の陶画工を集めた錦窯を複数もつ絵付工場の間で分業化がされ、磁器の大量生産体制が完成していたことであった。加えて、文明開化政策の一環として海外の磁器製造技術も積極的に受け入れたことであった。

一方で、絵画(狩野派)をたしなむ元藩士や藩のお抱え絵師や京の絵師から学んだ陶画工が育成され、明治九谷の絵付技術が全体的に向上した。彼らは単なる職人ではなく、日本画のような画風、デザインを陶画に取り入れ、あるいは赤絵細描の技法を向上させて金襴手や盛金の技術を製品に取り込んだ。こうした製品を販売したのは欧米の嗜好や評判を把握していた陶器商人であった。こうして、明治20年ころまで、いわゆる“ジャパンクタニ”が欧米を席巻するほどの勢いのあった時期であった。

ところが、明治20年ころを境に、金彩や金襴手の“ジャパンクタニ”は安価な物に代替され、また自らの粗製乱造もあって衰微していく中、松本佐平、徳田八十吉、三ツ井為吉らが古九谷の色絵や青手を再現することに技巧を発揮し、古九谷を倣った絵の具の再現に成功し独自の画風を生み出した。この青九谷と赤や金の主体とする赤九谷を完成させたのが明治九谷の大きな歴史的意義であった。〔T.K〕

加賀の焼き物 ② 加賀藩による茶陶 越中瀬戸焼

安土桃山時代に千利休や堺の商人などによって戦国武将の間で茶道が広まったことで、文禄・慶長の役の際に多くの戦国武将たちは、朝鮮半島から多くの陶工たちを日本へ連れて帰り、彼らによって築かれた領国の御用窯で茶陶を焼かせることを競い合ったという。この朝鮮半島での戦いを別名“やきもの戦争”と呼んだのもこのためである。

一方で、加賀藩の藩主 前田利家・利長親子も千利休の直弟子になるほどの茶人であり、特に、利長は秀でた茶人であったが、朝鮮半島の陶工たちを連れてこなかったので、茶陶を創りだすため、自らの財力と工夫で茶陶作りに取り組まなくてはならなかった。

安土桃山時代での茶陶造りの状況を見ると、尾張国瀬戸(現在の愛知県瀬戸市では瀬戸焼の生産が織田 信長によって積極的に保護育成された)や美濃(現在の岐阜県南部地域)では筒茶碗、沓茶碗、水指、建水といった茶陶が盛んに生産された。それは室町時代に瀬戸などで始まった施釉陶が、桃山時代になると、白、黄、茶、黒、緑などの釉薬によって色彩を出せるようになっていたからである。そして、それまでの窖窯(あながま)を改良して、素焼した後に施釉してから本焼する大窯(おおがま)が現れていた。その大窯が瀬戸から近隣の美濃に拡がり、志野・織部・黄瀬戸といった日本を代表する美濃桃山陶が生み出されていた。多くの瀬戸の陶工が茶陶作りの中心である美濃の地に移ったが、大窯の技術を持った瀬戸の陶工の中には美濃以外でも茶陶造りを行ったという。

その一か所が加賀であった。加賀藩初代藩主 前田利家は、天正16年(1588)、地縁的関係から(利家は尾張国荒子(名古屋市中川区荒子)の出身であり 荒子は瀬戸に近い)、尾張国瀬戸村の陶工・小二郎を招き寄せ、しかも越中の地で良質の粘土が採掘できたことから、前田家の手厚い保護の下、上末(かみすえ 現在の富山県新川郡上瀬戸)の地において瀬戸の大窯と施釉の技術をもとに茶陶造りを始めた。

その後、利家の茶陶作りを継いだのが二代藩主 前田利長であった。利長は、越中・守山城主であった時期から二代藩主の間(文禄2年(1593)から慶長10年(1605))に茶陶造りの一層の育成を図り、越中国新川郡芦見・末ノ荘付近で加賀藩の御用窯を築いた。さらに、瀬戸から陶工たちを招き、瀬戸と類似する陶土を見つけた場所で瀬戸焼と同じ茶陶造りをさせた。こうして、この地域で焼かれる“焼き物”を越中瀬戸焼と呼ぶようになった。当時の古窯跡からは天目茶碗、大海茶入などの破片が見つかっており、茶陶が中心であったことがうかがわれる。

次に若干13歳で三代藩主となった前田利常は潤沢な藩財政のもとで加賀伝統工芸の基礎を築くことに腐心したが、利長の志を継いで越中瀬戸焼の保護を続けることを忘れなかった。こうして、越中瀬戸村の20数カ所の窯から茶碗、茶入、皿、片口、盃、燭台などの生活雑器が送り出され、能登、加賀、越前にまで広がったという。中には茶陶として伝世するものが残っている。

その後、利常は、寛永17年(1640)小松に隠居した後も、越中瀬戸焼を焼く瀬戸村(このころは加賀藩の支藩である富山藩の統治下にあった)に対し年貢や役務を永代免除するほどの庇護を与えた。これには茶陶や生活雑器を制作する意図のほかに、磁器造りの手がかりをつかもうとしていたと考える。鍋島藩は、朝鮮半島から連れてこられた陶工たちによって領内まで広まってきた唐津焼の拡大を見てとり、同じく朝鮮半島から連れてこられた陶工 李参平に磁器(古伊万里)の製作を命じたといわれる。こうした鍋島藩での磁器の製作を始めたことを知って、利常が磁器の製作に強い関心を持ったのも自然であった。

こうして、加賀藩と大聖寺藩では、越中瀬戸焼で“焼き物”造りを経験したことから、豊かな財源を背景にして、中国や有田の磁器を買い集め、何らかの手段で磁器製作のための技術情報を集め、必要な陶石、顔料などを探して、磁器作りに挑んだと考えられる。鍋島藩が唐津焼の拡大を見たのと同様に、加賀藩も越中瀬戸焼を通じて九谷焼という磁器に結び付く重要な手がかりを得たと考える。(この唐津焼と伊万里との結びつきは後述する)

*越中瀬戸焼は江戸末期から明治・大正・昭和の苦しい時代を迎えたが、現在、400年に及ぶ伝統を活かして、素朴さとおおらかな自由さをもった野趣豊かな“焼き物”として焼き続けられている。 [T.K]

参照資料と画像;『越中瀬戸 発祥四百年記念誌』(越中瀬戸焼発祥四百年記念顕彰会実行委員会 S.63年11月発行)より

加賀の焼き物 ③ 古九谷から明治九谷まで