九谷焼の誕生
加賀藩三代藩主 前田利常は越中瀬戸焼の製作を進めた一方で、有田で磁器の製作が始まったことを知ると、磁器の製作に強い関心をもち、磁器の製作に取りかかった。利常は、豊かな藩の財源をもとに、加賀伝統工芸の振興を推し進め、書籍の収集をはじめ、城郭、造園、社寺の建立再建(瑞龍寺、那谷寺など)などを行い、また、東西の都を背後にした立地を活かして、茶道、刀剣、絵画、蒔絵などでの著名人を招くことで、金沢を江戸にも勝るとも劣らない文化の中心地にしようとした。
特に、海外より長崎や平戸にもたらされる貴重な文物を収集し、中でも、裂(きれ 中国の元・明・清時代に中国などで製作された金襴・緞子(どんす)・錦など)などの染織品、陶磁器(中国、朝鮮の陶磁器のほか、東インド会社を通じオランダのデルフト陶器も含まれる)などに興味を持ち、肥前鍋島藩の肥前平戸や長崎に家臣を常駐させて、それらを買い集めた。これは磁器の製作に備えるためであったと考えられる。
加賀の伝統工芸文化を終生希求した利常が“焼き物”の中でも最高の美と技術をかたちに表現する色絵磁器を求めたのも当然の成り行きであった。寛永16年(1639)、利常は、47歳で隠居したとき、加賀藩を、加賀本藩、利常隠居領、富山藩、大聖寺藩の四つに分割し、富山藩では兄 利長が遺した越中瀬戸焼を保護し続け、自分の隠居領では蓮代寺瓦窯を築き(本意は加賀本藩でも陶器窯を開くことにあったとされる)、そして、大聖寺藩の九谷村で彩色磁器を焼くことを推し進めた。(加賀本藩では、五代藩主綱紀のとき金沢の大樋焼が始まった)
こうして、大聖寺藩主前田利治は、明暦年間(1655-1658)、利常の支援の下、九谷村で彩色磁器の焼成を始めた。しかしながら、鍋島藩は藩外への磁器製造技術の流出を厳しく禁じていたので、古九谷の誕生には諸説が考えられ、有田との産地論争にまで発展した。その中には、鍋島藩との婚姻関係などを考慮すれば、有田の磁器焼成技術、素地などの移入(購入)が一定期間できたという契約説、有田から追放された中国人陶工を秘密裏に受け入れた中国人陶工説、京焼の色絵陶器の製造技術を発展させた仁清説(古九谷にある様式の一つである仁清手から発想されたようである)など古九谷の誕生には諸説が生まれ、未だ不明なのである。合わせて、突然に古九谷が廃絶されたことなど、多くの謎に包まれている。(誕生についての諸説について後述する)
再興された九谷焼(再興九谷)
この古九谷の廃絶から百数十年後の江戸末期になると、生活水準の向上に合わせて磁器や陶器への需要が高まると、藩自体の財政を圧迫するようになり、そのために金沢にて春日山窯が京の青木木米を招いて磁器の開窯がされ、続いて、加賀藩士武田秀平による民山窯も構築され、広く普及した。さらに、木米と共に京から来た本多貞吉によって能美郡で若杉窯が開かれると、陶石の発見とあいまって、良質の九谷焼が製作された。その後も次々と、小野窯、松山窯、連代寺窯が開かれ、中には名品と呼ばれる作品も製作され、名工と呼ばれた陶画工が多く誕生した。その中には斉田道開、九谷庄三、松屋菊三郎などがいた。
こうして、一時は廃絶した江戸初期の九谷焼が諸窯において再興されたのが再興九谷であった。特筆されるのが、文政年間(1818-1829)、古九谷青手の再興という浪漫をもって古九谷の再興に取りかかったのが、大聖寺藩の豪商 四代吉田屋伝右衛門が粟生屋源右衛門、本多貞吉らの協力を得て成し遂げられた吉田屋窯であった。さらに、この窯の持ち主が変わって宮本屋窯となると、飯田屋八郎右衛門が生み出した八郎手と呼ばれる赤絵細描が人気を博したが、明治時代になってその赤絵細描が浅井一毫らに継承された。
多くの名工を生んだ明治九谷
再興九谷で生まれ再現された様々な様式が明治九谷に受け継がれた。明治期になると、政府の殖産興業政策の下で各地の美術工芸品を大量に輸出するように奨励された。九谷焼の産地にとって幸いであったことは、江戸末期に斉田道開、九谷庄三らによって、本窯で素地を製造する業者と大勢の陶画工を集めた錦窯を複数もつ絵付工場の間で分業化がされ、磁器の大量生産体制が完成していたことであった。加えて、文明開化政策の一環として海外の磁器製造技術も積極的に受け入れたことであった。
一方で、絵画(狩野派)をたしなむ元藩士や藩のお抱え絵師や京の絵師から学んだ陶画工が育成され、明治九谷の絵付技術が全体的に向上した。彼らは単なる職人ではなく、日本画のような画風、デザインを陶画に取り入れ、あるいは赤絵細描の技法を向上させて金襴手や盛金の技術を製品に取り込んだ。こうした製品を販売したのは欧米の嗜好や評判を把握していた陶器商人であった。こうして、明治20年ころまで、いわゆる“ジャパンクタニ”が欧米を席巻するほどの勢いのあった時期であった。
ところが、明治20年ころを境に、金彩や金襴手の“ジャパンクタニ”は安価な物に代替され、また自らの粗製乱造もあって衰微していく中、松本佐平、徳田八十吉、三ツ井為吉らが古九谷の色絵や青手を再現することに技巧を発揮し、古九谷を倣った絵の具の再現に成功し独自の画風を生み出した。この青九谷と赤や金の主体とする赤九谷を完成させたのが明治九谷の大きな歴史的意義であった。〔T.K〕