吉田屋窯は、文政7年(1824)、吉田屋伝右衛門が古九谷青手の再現を目指して、多くの名工を集めて開いた窯元です。最初の登り窯は九谷古窯の脇に築かれたものの、交通不便のため、翌々年に山代越中谷に移されました。本多貞吉の薫陶をうけた粟生屋源右衛門が主工となり、陶方の主任に本多貞吉の養子 本多清兵衛、石方轆轤に若杉窯にいた京都の虎吉など当時の一流の工人が集まり、多種多様な製品が作られました。
九谷村の登り窯で焼かれた素地は黒ずんで分厚く、山代では、九谷陶石に粘土や田土を混ぜ合わせて分厚い素地が多く、赤褐色、やや黄ばんだ色、鼠色などの胎土をみせる陶胎であったが、それを黄・緑・紫の三色を上手く塗り分けて、吉田屋窯独特の青九谷の作風を作り出しました。
近年の調査では、山代の登り窯の構造は、全長約10m、幅約5mの連房式登り窯で、4層に分かれ最下層が5室の焼成室となっている窯で、その後、宮本屋窯、大蔵寿楽窯に引き継がれていったことが判明しています。