春日山窯の素地

春日山窯は、九谷古窯が閉ざされてから100年以上経った加賀の地 金沢春日山(注 卯辰山ともいわれる)に、京から招かれた青木木米と助工の本多貞吉によってもたらされた京における磁器の最新技術をもとに開かれました。

文化4年(1807)4月に、青木木米は金沢に来て九谷村の陶石と金沢茶臼山の土などを原料にして瓦焼の窯を借りて試焼したところ、木米の意に叶う作品ができたので、助工の本多貞吉は登り窯(素地窯)を春日山に築くことにしました。しかし、長雨のため、出来立ての窯は乾燥できず、火入れができるようになったのがその年の10月で、窯は11月になって開けられました。しかし、窯の湿気が十分に去っていなかったため、初窯の作行は優れていたものの、磁肌が幾分黒ずみ、染付の発色が淡く薄いものでした。

木米らは九谷村から陶石を取り寄せる考えでいましたが、九谷村が不便な地であったため、原料の取り寄せ場所を「能美郡瀬木野村 勘定村」「石川郡 別曾村三子牛柑」「河北郡 山之上二俣柑 卯辰村」などに変えたといわれます。

当初の素地は小砂が混じる鼠色の胎土(画像の上側)でしたが、貞吉の技術力をもって精製された素地が焼かれるまでになりました。こうして、やや乳白色の呉須赤絵写(画像の下側)のほか、日用雑器染付、交址写・絵高麗写・青磁なども作られ、一部には純白に近い素地に三輪の椿の花と葉を浮き彫りにし、ところどころ白・黄・緑と薄緑で彩った小皿もできるようになりました。

(注)この春日山窯は、その後、経営者が時期によって変わりならも、存続し、それぞれの特色を出しました。「民山窯」の素地窯として素地を作り、弘化元年(1844)頃に廃窯しましたが、慶応3年(1867)には加賀藩が藩窯「陶器所並陶器竃」を興したとき、再び開かれ、明治維新により閉じるまで使われました。その後、任田徳次が「向山窯」と称して自営で呉須赤絵写しのほか、赤絵細描、染付による日用品を焼きました。こうした意味で、春日山(卯辰山)は金沢地域における焼物づくりのメッカと言ってよいような存在となりました。

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