若杉窯は、文化8年(1811)、青木木米が京に戻った後も春日山窯に残っていた本多貞吉によって能見郡花坂村に開かれた窯元です。貞吉が加賀で磁器生産の機運が広まるのを感じ取り、磁器の生産のために欠かせない豊富で良質な陶石を花坂村六兵衛山に発見しました。そこからほど近い若杉村の十村 林八兵衛のところで素地作りの登り窯を築いたところ、良質な素地ができたので、次第に染付から色絵へと量産していきました。
花坂陶石の品質は天草陶石と同様に良質で、本多貞吉が肥前出身であり、天草の原土採掘の経験をもとに探し当てただけに、この陶石による陶土で成形された素地は明治九谷にも使用され、有田焼に劣らず高い評価を受けました。この陶石は現在でも九谷焼の素地原料の重要な供給源であり続けています。
この陶土の大きな特色は、腰が強い(粘りがある)ために手仕事(ロクロ水挽き)に向いていて、大きな皿や鉢は無論のこと、六角、八角、菊型、扇型、輪花などの素地成形にも適しました。近年の科学的分析によると、花坂陶石はカオリン(カオリン石)の一種で、長石類が自然に分解変質した白色の粘土であることがわかり、この陶石だけで磁器のための素地となることがわかりました。その素地は1300~1400℃の高温で約15~20時間ほど焼かれると、硬く、軽く、焼き締まり、釉薬がガラス化して吸水性のない純白透明性の磁器となります。
若杉窯の製品を大きく分けると、染付と色絵磁器となりますが、本多貞吉の陶工として技術基盤から、他の再興九谷の諸窯を比べても染付の割合が多く、需要の多かった日用雑器の型物が多く見られます。その素地には荒い貫入が多く入ったものがありましたが、染付の色合いと合わせて、若杉窯特有のものとされ評判となりました。
一方、色絵磁器は、貞吉の死後に勇次郎が主工となると、その多様さが富みました。春日山窯の呉須赤絵を思い起こさせる製品のほか、吉田屋窯の塗埋手と見間違えるほどの製品、古伊万里風の絵の具の赤、染付の青、真っ白な素地とが鮮やかな製品などがあり、特に、古伊万里風の製品は若杉伊万里と呼ばれ、その素地は真っ白で完成された素地でした。他にも赤絵南京、瑠璃、青磁なども作られていたことから素地には重大な欠陥がなかったと見られます。
若杉窯の登り窯は、貞吉が文政2年(1819)に亡くなるまで自身によって改良され続けたので、良質な素地が造り続けられました。しかし、天保7年(1836)工場が全焼しため、翌年、新しい登り窯が隣の八幡村に築かれ、同時に生産規模も拡大されました。しかしながら、大量生産に向けて登り窯の焼成時間を短くしたため、その素地から若杉窯の堅質な特色が失われて著しく軟弱となり、黒ずんだ黄卵色を帯びた亀裂のある一種の半磁器の素地に変わりました。その傾向は、明治維新を迎えて加賀藩の保護から離れると、拍車がかかり、遂に、素地窯の役割すら果たせなくなり、明治8年(1875)に廃窯されました。