江戸末期、「赤色」の際立つ九谷焼(色絵や青手に対し赤九谷と呼ばれた)が焼かれると、瞬く間に加賀中に広まりました。その様式美が高く評価され、明治中頃に、一部の赤九谷が“九谷赤絵”と呼称される一つの様式に分類されるまでになりました。
なぜ、物を「赤色」に塗ったのか、その意味を調べてみると、塗られた物や時代によって意味が異なり、「赤色」に対する人々の想いも異なることがわかりました。さらに、人々が日常で「紅白」(本来なら、赤白ですが)を祝い事などに取り入れ、ときに「紅白」で“ハレ”を演出し、我が国では、基本的な色相の一つとして根付きました。こうして、赤九谷においても白い素地を多く残した赤九谷も特別な意味や想いが込められたと考えます。
ところで、「赤色」の色名が初めて文献に登場したのが8世紀ころで、下記の「朱(しゅ)」「丹(に)」「代赭(たいしゃ)」「紅(べに)」「緋(ひ)」「臙脂(えんじ)」「蘇芳(すおう)」といわれ、その後も赤色系の色名が造り出され、現在、ある辞典には99の色名が記載され、染料においても同様に数えきれないほどあります。
一方で、「赤色」系の顔料についていえば、江戸末期までは「赤土弁柄(あかつちべんがら)」「朱」「鉛丹(えんたん)」だけで、しかも豊富とまでは言えませんでした。そこで、本稿において、これらの「赤色」顔料が何に用いられたかを知り、次に「赤色」の際立った色絵陶磁器において、江戸末期に製造された良質の「弁柄」によって京焼が絵付されたことで、その「赤色」顔料が九谷焼に伝播し、佐野赤絵が誕生した経緯を概観します。
*顔料と染料の意味-溶剤に溶ける着色剤を染料、溶けないものを顔料という。染料が溶剤に溶け、複数の色を混ぜ合わせることで比較的容易に新たな色を作ることができるのに対し、顔料は溶剤と混在する状態を保つので、顔料そのものに近い色相が現れます。そして、顔料が染料に比べて耐光性や耐水性に優れていることから、塗料、絵の具、化粧品などに用いられます。
赤土で造った最初の「赤色」顔料-赤土弁柄
我が国の顔料の歴史に最初に登場した「赤色」顔料は、「赤土弁柄」といわれ、赤鉄鉱の風化された細粉を多く含む土壌や赤みの強い粘土系の土壌などを指しました。縄文・弥生時代の“赤土”の色相は地域によって異なり、科学的には、“赤土”に含まれる酸化第二鉄の赤い結晶粒子が多く含まれるほど、明るく赤い色相であったといわれます。この「赤土弁柄」は日本の各地で見つかり、丹土(につち)とか赤泥(せきでい)などとも呼ばれ、こうした露天の土壌を原材料にして「弁柄」の原型ができました。それからずっと後に陶磁器に用いられることになった「吹屋弁柄」は酸化第二鉄の赤い結晶粒子が多く含まれていたので、九谷焼では、赤絵細描画を生んだと考えられます。
酸化第二鉄の採掘跡(青森県東津軽郡今別町)
「赤土弁柄」で塗られた物からわかることは古代人の「赤色」に対する想いです。古代人は「赤色」に生命力を感じ、健康や長寿・再生(蘇生)を祈る神聖な祭事や風習において用いた重要な器具類を、また別のある地方では祭事に携わった人の体を「赤土弁柄」で塗りました。縄文時代に古代人が世界で初めて土器に赤く塗ったことに驚かされ、他にも、土器、土偶、壺などを神聖な想いで赤く塗ったと考えられます。
上山遺跡巻貝形土品(縄文時代) 朝日遺跡出土品(弥生時代)
その後も引き続き用いられ、奈良時代に行われた正倉院の宝物の彩色に「赤土弁柄」が用いられていたことが確認され、その後も各地の寺社の金堂、塔、門などを「赤土弁柄」とそれに類した「赤色」顔料で塗られました。
辰砂鉱石による赤色顔料「朱」
上述の「赤土弁柄」より少し遅れて、8世紀ころ「朱」が登場しました。主原料の辰砂鉱石そのものが色鮮やかであったので、それを絵の具に加工しました。弥生時代から平安時代にかけて辰砂鉱石が西日本で発掘され、その鉱山跡と思われる地名が西日本に多くありますが、「丹生」(にう)が付く地域は辰砂鉱石と関連ある地域でした。
辰砂鉱石
「朱」は、“朱色(しゅいろ)”とか“朱赤(しゅあか)”といった言葉のとおり、「赤土弁柄」より鮮やかな「赤色」の色相を見せます。このため、「赤土弁柄」よりも重要な意味や想いを持って用いられ、古墳内の人物埴輪、墳墓、石棺、壁画などを彩色するための絵の具に用いられました。飛鳥時代の藤原京に築造された高松塚古墳(奈良県高市郡明日香村)に見られる壁画の「赤色」は“水銀朱”(辰砂鉱石から造られた「朱」と意味)と「赤土弁柄」で塗られました。下の画像の右の女性の細い帯が“水銀朱”で重ねて塗られ、中央の女性の上着が「赤土弁柄」で塗られています。これは、高貴な人物の埋葬に合わせて器物や置かれた場所の壁が“神聖”であると考えたからです。
高松塚古墳壁画
平安時代に、「朱」の用途が漢方薬や朱漆、朱墨などに拡がり、江戸時代には、仁清が「朱」を京焼に初めて用いて、京風な雅のある色絵陶器を創製ました。ただ、仁清は焼かれた色絵陶器の「赤色」が鮮やかでなかったことから、後世、もっと鮮やかな「赤色」を取り入れるようになりました。
丹塗りに使われた赤色顔料「鉛丹」
江戸末期に「吹屋弁柄」が現れるまでは、「赤色」顔料といえば、奈良時代までに出現した「赤土弁柄」「朱」と次に述べる「鉛丹」だけでした。時の為政者は大量の「赤色」顔料を求めました。その理由の一つに、平安、鎌倉時代に相次いで大規模木造建造物が建てられ、それらを虫害・腐食から保護するための塗装が必要であったからでした。本当は、それらの創建に直接携わった人々が建物の荘厳さを高めるため、あるいは、当時の為政者が自らの権威の象徴として視覚的な手段として赤く塗ったからです。「赤色」にはそうした意味や想いがあり、一般の人々も「赤色」に塗られた建物に尊厳さを感じたと思われます。
大仏殿内部の丹塗り
ところで、仏閣の部材を赤く塗る様式は仏教伝来(552年頃といわれる)と共に伝わり、その顔料の製法も伝わり、「鉛丹(えんたん)」と呼ばれ、やや黄色がかった、明るい「赤色」顔料で、膠水(にかわすい)で溶いて用いました。唐招提寺金堂や薬師寺東塔の天井に、白色の地に赤、黄、青、赤紫、黒の極彩色で文様が描かれていますが、この「赤色」顔料は主に「鉛丹」で、「赤土弁柄」も文様の輪郭線に用い、正倉院の宝物の一部も「鉛丹」で塗られたといわれます。
ただ、仏教伝来のとき伝わった製法では効率良く大量に造れなかったため、必要な「赤色」顔料が確保できない時代がしばらく続きましたが、14世紀(鎌倉時代末期)に「鉛丹」の新しい製法が明から導入されると、大阪堺の朱座(朱の製造販売を行った問屋の同業者組合)で「鉛丹」が効率良く造られるようになりました。こうして、室町時代以降、「鉛丹」の生産量が増えていき、時の為政者は宮殿、地方の役所、神社仏閣を「鉛丹」で塗装することによって権威や荘厳さを高めたと思われます。
また、その頃、船が輸送手段として使われ始めると、「鉛丹」が船底塗料にも用いられ、また絵画の絵の具にも広がりました。この結果、朱座(「朱」を取り扱う問屋組合)の「鉛丹」の生産量が本来の「朱」を上回ったことから、「朱」の別名である「丹」(に)を「鉛丹」の呼び名に用いるようになり、「鉛丹」で塗ることを「丹塗り(にぬり)」と呼びました。後世になって「鉛丹」に毒性があるため「鉛丹」が使用されなくなっても、顔料の種類に関係なく、神社仏閣の部材を「赤色」で塗ることを「丹塗り」と呼び続けているといわれます。
弁柄の代用品から「吹屋弁柄」へ
しばらくの間、「赤土弁柄」「朱」の量や質が変わらず、16世紀中ごろから江戸時代の鎖国の間でも、これらの顔料が南蛮貿易や長崎貿易を通して輸入されました。「朱」「丹土(にど)」(弁柄の原料となった赤土弁柄のこと)などの顔料が長崎に輸入され、大阪や江戸の問屋に回され販売されました。それでも、需要に追いつかなったため、大阪道修町の絵の具屋、薬種商から安くて大量の「赤色」顔料が求められました。
このため、「丹土」の開発が行われたようで、摂州多田銀銅山(現在の兵庫県川西市猪名川町および大阪府池田市にまたがる鉱山)で「丹土」が運上物であったとの記録が残っています。ここ以外にもあったようですが、十分でなかったと思われます。
次に採られた方策は、明和年間(1764-1772)から10年くらい続いた「鉄丹弁柄」で、大阪で銑屑(堺の鉄鋼製から出た鉄のけずり屑など)を利用して造られました。その製法は、3年から5年の間、鉄屑を風雨に晒してボロボロで茶褐色になった鉄屑を粉砕しそれを焼いて、さらに粉砕したものでした。これを造った業者は「朱」「鉛丹」を製造販売した堺の数十軒の問屋でした。
復元鉄丹弁柄 吹屋弁柄
一時、この「鉄屑弁柄」は大商人の大店(おおだな)の弁柄格子の塗装に用いられ、まさに大阪や京都の大商人が威厳を示すためでした。そして、上方浮世絵(大阪、京都の浮世絵)にも用いられ、これまでの墨絵と区別して、その浮世絵は「丹絵」「紅絵」と呼ばれ、部分的に「赤色」で彩色されました。浮世絵の作者が「赤色」を用いた意味は、「赤色」を配色した人物は正義感溢れた人物であることを表わし、別の作者は“赤っ面”で敵役(かたきやく)の家来や手下であることを表わし、人気を呼びました。
しかしながら、「鉄丹弁柄」がその製造に時間がかかりすぎ、品質的に難点がありました。「赤色」がやや暗いこと、粒子が硬くて擂り潰すのに手間がかかったこと、粗かったために均一に塗るために手間がかかったことです。そのため、「鉄丹弁柄」の需要は伸びず、寛政年間(1789-1801)に大阪の別の問屋が良質な「吹屋弁柄」を扱うようになると、「鉄丹弁柄」は姿を消していきました。
「吹屋弁柄」が広がっていった背景に疱瘡絵がありました。江戸末期、疱瘡(ほうそう)が流行ると、人々は「赤色」一色で刷り込まれた疱瘡絵(浮世絵)を買い求めることが度々ありました。古代人がそうであったように、当時の人々も「赤色」には魔除けの意味があると信じていたからでした。摺り師が版木に赤色を付け、濃くするところは重ねて色付けするので、「吹屋弁柄」がなかったら、人々は疱瘡絵を手にすることができなかったといわれます。
疱瘡絵の一例
さらに、「吹屋弁柄」を京焼の新進陶芸家 奥田潁川が呉須赤絵写しに用いると、人々はその「赤色」に惹かれたといわれ、それは「吹屋弁柄」の高い品質と鮮やかな発色が得られたためでした。やがて、京焼の色絵陶磁器全体に拡がり、さらに、加賀の地に伝播しました。これらの陶磁器を見ると、多くの陶画工が作品の上でそれぞれの想いを、「赤色」を用いて表現したことがわかります(参照;「赤色」の際立った色絵陶磁器)。
資料
『大地の赤 ベンガラ異空間』(INAXライブミュージアム)
『顔料の歴史』(絵具講座第Ⅱ講 鶴田榮一)
『伝統のベンガラから新規な赤色酸化鉄への研究展開』(岡山大学 高田 潤 中西 真)