斉田伊三郎 その4 九谷細描を生んだ「吹屋弁柄」

   

古九谷五彩手には、「赤色」の絵の具を用いて細描画の蝶(画像①)や、鳳凰、松葉、亀甲文、菱文、紗綾文などが見られ、また、斎田伊三郎の赤絵徳利には、画像②のような「紅白」の龍の図案が見られます。そして、九谷焼の他の多くの作品を観ていると、「弁柄」の発色の仕方が、“黄赤色”から“鮮やかな「赤色」”そして“赤褐色”まで微妙に異なっています。それは、多くの名工が弁柄そのものと他の材料の配合、擦り作業、絵付窯の燃焼温度などに工夫を加え、独自の美しい「赤色」生み出したからと考えられます。

現代の“佐野赤絵”の第一人者、福島武山 氏は「細かくても濃く盛り上がった、指先でも感じることができるような、線が理想です。しかしこれがなかなか難しい」、「その細かさを徹底しています」と述べられ(*1)、なおも、竹内吟秋、浅井一毫ら明治の名工たちが「吹屋弁柄」の特性を引き出して「九谷赤絵」の“決め手”となった赤絵細描画を創造したことに感銘されています。そこで、「吹屋弁柄」の特性がどんなものか、それを造ってきた歴史を述べてみます。

吹屋弁柄の特性「決まる線」

(「伝統顔料の赤に挑む」から引用一部加工)

岡山大学の研究(*2)によると、「吹屋弁柄」の粒子径がナノレベルで揃っているため、福島氏の言われる「「細かくても濃く盛り上がった、指先でも感じる」絵付ができると指摘しています。上図のように、素地の上に塗られた絵の具の「上絵層(ガラス層)」の中でベンガラの微粒子が分散し、その大きさと上絵層の厚さとが赤絵の発色に影響していることを考えだしたことがわかります。

磁器の素地に塗られたベンガラは、高温で焼成されたとき、ベンガラに含まれる不純物の一つである極微量のアルミニュウムによってベンガラの粒子が大きくなるのを抑えられ、その粒子径が変化しないことがわかったといいます。さらに、その粒子が小さいほど(粒子径100ナノ・メートル)、鮮やかな黄赤色になり、逆に粒子が大きくなるほど赤色が濃くなることも解明され、また、ベンガラ粒子を含む上絵層が厚い場合、絵付の燃焼温度にもよりますが、濃い赤色に発色することもわかりました。

また、別の研究(*3)によると、「吹屋弁柄」による線描では「細かくても濃く盛り上がった」線を描くことができることが解明されました。ベンガラのような粒子の細かい顔料には上絵層の中で顔料の粒子が浮いてくるという性質があり、その性質によって高い隠ぺい力をもつベンガラで引かれた細い線に“切れ味”が出てくることがわかりました。つまり、ベンガラの高い隠ぺい力によって下地の色から影響をほとんど受けないため、発色したベンガラ自体のため、下の色をおおい隠せて塗られたところの色彩がより鮮明となると考えられます。しかも、この隠ぺい力には、弁柄の粒子径と関係していて、その力は70~100nm(ナノ・メートル)で急激に増加し,100~200nmで最大となって,それ以上の粒子径になると、ゆるやかに減少していくこともわかりました。こうして、岡山大学の研究と合わせて考え合わせてみると、粒子径100nmの「吹屋弁柄」が鮮やかに発色するので“決まった”線が引けることがわかります。

吹屋弁柄の歴史

では、この粒子径100nmの微粒子のハイテク製品「吹屋弁柄」が江戸末期にどのようにして誕生したかを概観してみます。(詳しくは資料4を参照してください)

「吹屋弁柄」が生まれた所は備中国吉岡銅山(現在の岡山県備中高梁市吹屋町)で、その始まりは、宝永4年(1707)、銅山の捨て石(品質の劣る硫化鉄鉱)をもらい受けた村人ら数人が偶然見かけた赤くなった捨て石を見て素朴な方法で弁柄を造ることを試みたのが始まりと伝えられます。彼らは細々と造り続けましたが、大きな転機を迎えたのが50年後の宝暦元年(1751)、吉岡銅山の本山鉱山が開坑されたときであったと伝えられています。

本山鉱山から良質な硫化鉄鉱が鉱脈として大量に見つかったことから、長門国(現在の下関市、萩市、長門市、美祢市などを含む)の住人 原弥八が招かれました。弥八は、試行錯誤の末、その硫化鉄鉱を使って弁柄の中間原料である、良質な緑ばんの製造に成功し、さらに、数年の歳月をかけ、「吹屋弁柄」を生み出しました。その後、下の図のように、良質な弁柄を製造する技術が確立され、明治にかけ生産規模を徐々に大きくしていきました。

「弁柄製造工程」鉱石が顔料になるまで(「大地の赤ベンガラ異空間」から)

原弥八の出身地長門国には、長登銅山(現在の美祢市秋吉台付近)があり、古くはそこで奈良の大仏の建立のために銅が採掘されましたが、江戸時代の元禄期(1688~1704)になると、大阪の銅商人たち(銅座 主宰者は住友家)が経営するに及び、さらに、吉岡銅山にも係わるようになりました。吉岡銅山で良質で豊富な硫化鉄鉱(古くから顔料の原料に使わていた)が発見されたことを知り、長登銅山で培った顔料の製造にかかわっていた職人の弥八が招かれました。長登銅山で造られていた“滝の下緑青”は、古くから、着色用緑色顔料として世に知られていましたが、その製法は鉱物の塊を砕いて篩(ふるい)や水簸(すいひ)等を利用し、様々な粒径の粒子を作り出すというものでした。弥八はこの製造技術を応用改良したとみられ、吉岡銅山の良質な硫化鉄鉱から顔料の「弁柄」を造ることを試みたと考えられます。

左端;緑ばん 右端;焙焼後の弁柄 (旧片山家住宅の資料展示品)

まず、磁硫鉄鉱を焼いて淡青色の緑ばん(左端;緑ばんの見本瓶)を造るローハ工場の工程では、上粗銅の製造工程に似ていたと見られ、硫化鉄鉱を30日間程大量の薪を燃やして焼き、不純物をかなり除き、いくつかの精製の作業を経て、良質の緑ばんが造られました。

次の弁柄工場では、長い工程のなかに、2回の釜焼(右;焙焼後の弁柄)、3回の粉成し(粉砕)が繰り返され、水洗い(*水簸)を経て微細な粉末を選別する工程が組み込まれ、最後の工程で“あく抜き”(*あく抜き)を100回ほど繰り返すと,弁柄の微粒子が泥状の水の中に浮き、この水が淡赤色に染まり、弁柄が沈殿しなくなります。この泥状の水を干し板(箱状)に流し込み、天日干しして篩にかけ包装して製品となりました。こうした工程毎には経験を積んだ職人がいて、微妙な作業をしたといわれます。正に、職人技によって粒子径100nmの微粒子の「吹屋弁柄」が造られました。

(*)焼鉱;鉱石の温度を鉱石中の硫黄分が燃える温度まで上げることにより、外部から燃料を追加しなくても、不純物を部分的または全てを燃焼させ除去する

(*)水簸;粗粉を水中に入れると,粗粉が先に沈むことを応用して、細・ 粗を分け,同時に砂・石灰石・酸化鉄などの夾雑物を除去する。鉱物から顔料を作ること、窯業原料の陶土の品質向上のために広く用いられている

(*)あく抜き;ここでいう「あく」とは硫黄分を含むガスのことで、泥状の弁柄に溶けている「硫気」を指す。これが残ったまま、弁柄を塗り焼くと、塗布面に悪影響を及ぼすと考えられている。

吹屋弁柄の拡がり

「吹屋弁柄」は、その良質な弁柄の製造方法を確立し、その規模を徐々に大きくしていったといわれます。寛政年間(1789~1801)、「吹屋弁柄」が大阪市場に出回ると、それまでの“鉄丹弁柄”は大阪市場から追い出されましたが、皮肉にも「吹屋弁柄」を取り扱った問屋仲間は28軒以上の「鉄丹弁柄」の問屋であったといわれ“鮮やかな赤色”を宣伝文句に販路を全国各地に拡がっていきました。「ふきやの話」(*資料4)には、既存の朱座との「吹屋弁柄」の取り合いの展開が書かれています。

吹屋街並の塩田瓦屋根

急速に拡がった頃の弁柄は、織物の下地染め、家屋の防腐塗料、瓦の着色などの需要が増していきましたが、磁器の絵の具には未だ拡がっていなかったようです。おそらく、磁器の絵の具に用いられた「吹屋弁柄」は品質的に最優良の銘柄であったといわれることから、京焼で絵の具として用いられるに従い、改良されていったと考えられます。

「吹屋弁柄」の用途・使用場所については、「大地の赤 ベンガラ異空間」(資料*1)に載っている、明治22年(1889)の片山家(弁柄工場の最大手)の用途・出荷地から見て、需要先が広範囲で、下表のとおりです。その頃、現在の岡山県備中高梁市成羽町吹屋には弁柄工場6軒とローハ工場3軒が操業し、それらが株仲間を組織し、「吹屋弁柄」あるいは「緑播(ローハ)」を製造販売したことが述べられ、明治・大正・昭和初年にいたる200年の間、「吹屋弁柄」は長く独占的な繁栄を続けました。

用  途 製 品 ・ 使 用 場 所
 

 

塗 料

建物 吹屋、倉敷、内子、萩、祇園新町、産寧坂、妻籠宿、奈良井宿、高山、関宿
建具・道具 江戸指物、小木箪笥、庄内箪笥・船箪笥
漆器 輪島塗、山中塗、飛騨春慶塗、江戸漆器
船底・鉄橋 瀬戸内造船所
絵の具 陶磁器 九谷焼・有田焼(注)
繊維染料 下地染め 名古屋繊維産業、大阪工芸工業地帯
顔 料 インク・瓦 東京印刷用インク、赤漆喰壁、
石州赤瓦、塩田瓦

(注)有田焼;赤絵町の絵の具専門店が吹屋からローハを俵で仕入れ、自前で焼き、焼く時間と温度を変えて、独自の5種類の赤絵の具を製造した

このように、吹屋弁柄が長く繁栄を続けた理由は、その品質が優れ、用途に応じていろいろなグレードの製品が大量に造られたといわれます。製品価格を見ると、磁器用などの最高級品の価格が、明治28年(1895)、米1升(約1.5㎏)が10銭であったころ、百匁(375グラム)入り1袋で60銭であったといわれ、年代が不明であるが、片山家に残る、66銘柄の値段表を見ると、百匁あたり1円から2銭の価格幅があり、いろいろな用途に用いられたと見られます。

次に、いろいろなグレードのある中で高い価格の高い「吹屋弁柄」を用いた赤九谷をいくつか見てみます。

資料

1「大地の赤 ベンガラ異空間」(INAXライブミュージアム)のp.54-57

2「伝統顔料の赤に挑む」(岡山大学 高田潤 浅岡裕史)

3「顔料の粒子形態と光学的性質」(工業技術院大阪工業技術試験所 信岡聰一郎)

4「ふきやの話」(長尾隆)

斎田伊三郎 その3「赤色」の際立った色絵陶磁器

我が国の陶磁器の歴史の中には「赤色」の際立った色絵陶磁器があります。江戸初期に、柿右衛門が“柿のような美しい赤色”を、仁清が王朝趣味の意匠を華やかに彩る赤色を、江戸後期に、奥田潁川が文人たちの眼を惹きつけるような弁柄の赤色をそれぞれ創製しました。多くの陶画工たちは自分の「赤色」に独自の想いを込めて制作した色絵陶磁器の歴史を概観します。

柿右衛門の“柿のような美しい赤色”

初代 柿右衛門は、自分の想う「赤色」を試行錯誤の末に、濁手の磁胎に合わせた“柿のような美しい赤色”を見つけたと語り継がれています。その後、歴代の柿右衛門が初代の“柿右衛門の赤”を守る継ぐために、代々の赤絵の具の処方を「赤絵具覚」に書き残してきました。

柿右衛門(十三代)の赤(個人蔵)

“柿右衛門の赤”は原料の“ろくはん”を造ることから始まりました。水を張った大きな壺の中に酸化鉄(赤さび)を入れ、10年という長い歳月をかけボロボロにさせ、その粒子を潰して小さく細かくし、細かくすればするほど、“柿右衛門の赤”になることを発見しました。次に、この“ろくはん”をガラス質の材料などと混ぜ合わせて“すり”作業を繰り返しました。こうして、水簸、“すり”、材料の調合を変えて特異な色相に発色する独自の赤絵の具を見つけました。一つの色を作るのにも手を抜かなかったといわれます。

“柿右衛門の赤”には、”赤カバ”(黒みが強い;輪郭などの縁を描くため)、”濃赤(だみあか)”(朱色に近い;柿の実を絵付するため)、”花赤”(“柿右衛門の赤”を象徴するもの;鮮やかな花を表現するため)などがあり、用途に合わせて使い分けされました。

柿右衛門と今右衛門を除き、有田焼に用いた赤絵の具は、当初、オランダ東印度会社が長崎に輸入したインド産「ベンガラ」(良質な酸化第二鉄)を原料にして長崎にいた中国人が造ったといわれます。その後、有田赤絵町の絵の具屋が備中高梁の吹屋産ローハに代えて、「弁柄」を造りました。江戸末期、若杉窯において三田勇次郎がその「弁柄」を持ち込んで、若杉伊万里と呼ばれた色絵磁器を焼きましいた。

仁清の用いた赤色顔料「朱」

柿右衛門が色絵磁器を焼き始めてから間もなく、京焼の御室焼(おむろやき)で野々村仁清が初めて色絵陶器を焼きました。この色絵陶器は、白釉が掛けられた、やや卵殻色の下地(素地)に赤、緑、青、金などで絵付し、全体からは柔和な印象を受けます。

仁清 色絵陶器(石川県立美術館蔵)

仁清の色絵陶器の製法は、磁器のそれと同じで、登り窯で焼いた下地に絵付してから、内窯(錦窯)で700~800度で焼くという“二度焼き”でした。この焼成温度を下げる方法で「赤色」顔料を焼き付け、これによって、仁清は華やかな王朝趣味の意匠や狩野派の絵を基調とした絵画的意匠を表現することができました。

仁清の用いた「赤色」顔料は「朱」で、濃い「赤色」でした。仁清から直接に色絵技法を学んだ尾形乾山が著した“陶工必用”の中で、仁清が「上々辨柄丹土の事」と述べたように、「弁柄」がこの上もなく良いとしながらも、十分に手に入らず、仁清の想いを表現できなかったと考えられます。当時の「弁柄」は「丹土(にど )」から造ったもので、京都に住む中国人の“焼物師”が造ったので、高価で入手するのが容易でなかったとみられます。

画像の色絵陶器は、仁清の作品を好んだ金森宗和(宗和流祖)から加賀藩主前田利家に贈られたもので、色も形も洗練を極めた色絵陶器で、この五彩が古九谷の色絵に影響を与えたと考えられます。

奥田潁川の呉須赤絵

仁清の色絵陶器が開発されてから百数十年後、今度は、奥田潁川によって色絵磁器が京都清水五条坂周辺で初めて焼かれました。潁川は明末に景徳鎮近くの民窯で焼かれた呉須赤絵(我が国だけでの呼称)に深い思慕を抱いたといわれます。潁川は、その先祖が明末に亡命してきた明人の末裔であったといわれ、焼き物に全くの素人でしたが、呉須赤絵写しの制作に挑戦しました。瀬戸で磁胎技術を修得し、先進技術の集まる五条坂周辺で「吹屋弁柄」を手に入れ、その発色を追求し、京焼初の色絵磁器を制作しました。

この呉須赤絵写しは、「弁柄」ならではの鮮やかに発色させ、伸びやかな筆致で文様が描かれていたので、白い磁胎に映える「赤色」に惹かれた文人たちから人気を集めました。こうして、潁川は、京風の“雅”だけでなく、自身の燃えるような陶芸への情熱を見事に「赤色」に表わしたと思われます。

奥田潁川 呉須赤絵写し(図録より)

潁川の色絵技法は惜しげもなく弟子たちに伝えられ、弟子の青木木米、仁阿弥道八(二代)、水越輿三兵衛(初代)らが各地の窯場に広めました。その一人 青木木米が呉須赤絵などの色絵の技法を春日山窯にもたらしました。また、斎田伊三郎が京都で水越輿三兵衛から色絵の技法の指導を受けてから、佐野村に戻って、佐野赤絵を開発しました。

水越輿三兵衛の「朱赤」

水越輿三兵衛(よそべい)による画像の作品について「白化粧の素地に朱赤で瓔珞文の赤く塗った丸紋と線描が鮮烈に描かれている」と解説されています。“朱赤”とはやや黄をおびた「赤色」をいい、清水五条坂周辺ではこうした「弁柄」の発色方法が早くも存在していたことがうかがわれます。

水越輿三兵衛の朱赤 (図録より)

「弁柄」は、その粒子径をより細かくする、合わせて、ほかの材料の配合を調整することによって、色相がより明るい色相(朱赤に近い)になるという技法が清水五条坂周辺で得られたので、輿三兵衛もそれを使ったとみられます。この「朱赤」は同じ輿三兵衛作の呉須赤絵風の鉢より明るい「赤色」に発色しています。佐野窯を開いた齊田伊三郎は輿三兵衛の窯場で得た「弁柄」の発色法と合わせて京都の開放的な雰囲気も佐野村に帰ったと考えられます。

永楽保全・和全の赤地金襴手

永樂保全は陶器も磁器も手掛け、仁清写しの「赤色」を取り入れた作品も制作しました。保全以降、“秘伝の赤”が永楽家に伝わり、その「赤色」は、濃厚でありながら、渋味や黒味がなく温和な光沢を放ち、わが国で陶磁器に用いられた「赤色」の中で最も優れた「赤色」の一つといわれます。

 

 永楽保全の金襴手(図録より) 永楽和全の金襴手(石川県立美術館蔵)

保全の跡を継いだ 永楽和全が加賀の大聖寺藩九谷本窯に招かれ、京焼風の金襴手を焼いたとき、永楽家伝来の「赤色」を用いました。この「赤色」を用いた作品が加賀全土で高く評価され、明治初期、浅井一毫らによって制作された“九谷赤絵”の基盤的な色相の一つとなりました。

参照;再興九谷 九谷本窯

再興九谷の赤

春日山窯の呉須赤絵

江戸末期、青木木米と本多貞吉は加賀藩に招かれ、色絵磁器と本窯の技法を使って、呉須赤絵写しを金沢の春日山窯で制作しました。白い素地の上に「弁柄」の鮮やかな赤と濃い目の緑とを対比させながら、黄・青・黒などをところどころに取り入れた奥田潁川風の赤絵磁器によく似ています。その後、これがきっかけにして、民山窯などが「赤色」を多用した細描画を描きました。

春日山窯の呉須赤絵写し(石川県立美術館蔵)

詳細;再興九谷 春日山窯

若杉窯の加賀伊万里

若杉窯の作品には、肥前有田で色絵を修得した三田勇次郎が製作した伊万里風の赤絵があり、それを加賀伊万里とか若杉伊万里と呼びました。

この「赤色」は“ペンキ赤”と呼ばれ、「吹屋弁柄」のような鮮やかな「赤色」と異なる発色をしていることから、有田産の「弁柄」が用いられたとみられます。斎田伊三郎は、京都に出る前に、若杉窯で勇次郎のもとで着画法を学びましたが、勇次郎の影響より水越輿三兵衛のその方が大きかったとみられます。

若杉伊万里(石川県立美術館蔵)

参照;再興九谷 若杉窯

小野窯の赤絵細描画

小野窯は若杉窯出の陶工が開いた窯元で、天保年間初めに佐野村に戻っていた斉田伊三郎から素地や着画の指導を受けた一方で、客分の陶画工たちを主工として迎え入れて製品を製作しました。特に、庄七(九谷庄三の幼名)が制作したとされる“姫九谷”は赤絵細描画の名品でした。また、この窯では多くの絵付職人(当初は農業と兼業でした)が見よう見まねで、人物や文様を赤一色で描いた生活雑器も乱造しましたが、やがて、色絵も止め、素地窯として終わりました。

小野窯の赤絵細描画(石川県立美術館蔵)

参照;再興九谷 小野窯

民山窯の赤絵細描画

民山窯では加賀藩士 武田秀平が創始者として、また製品企画者として係わりました。他の再興九谷の諸窯とはその生い立ちが一風変わった窯で、秀平自身の春日山窯再興への想いと工芸品への洗練された美意識、そして、秀平の構図を絵付した陶画工たちの高い技巧があってこそ、数々の名品が制作され、それがほかの九谷焼に大きな影響を与えました。民山窯の赤絵細描画は、のちに九谷焼の一様式となる「八郎手」の先駆をなしたといわれます。

磁胎が淡い茶褐色を帯びていたため、その「赤色」が濁った「赤色」の“臙脂赤”に見える赤絵と、色絵、また金彩も施された赤絵金彩もあります(一度焼きのため金に光沢がなかった)。また、製品の種類は、前田藩江戸藩邸跡からも発見されたように、工芸品(香炉、花瓶、煎茶器など)から生活雑器(食器、酒器)までと幅広く、広範囲にわたり販売されたといわれます。

民山窯の臙脂赤(石川県立美術館蔵)

秀平は、姫路藩士であった頃から、美術工芸品を好み、能、和歌、書画などをたしなみ、京都に遊学していたとき、京焼五条坂周辺で当時の色絵磁器を目にしたと思われ、文化11年(1814)から加賀藩老に仕えていたとき、藩窯 春日山窯初期の製品も見ていたと思われます。春日山窯が民間に移ったあと、藩主に仕えると、金沢城内の御細工所(武具や調度品などの工芸品を制作し修理する工房)の細工方(工房付き役人)に就いたとき、藩窯の再建と色絵磁器の制作を想ったと思われます。金山方(鉱山役人)も兼ねていたのも、陶石の確保も担っていたと考えられます。

そして、民山窯を支えた陶画工として、明治にかけて活躍した赤絵細描画の陶画工などが関わりました。職長に越中屋平吉青木木米から陶法を学ぶ)、陶画工に鍋屋吉兵衛(赤絵細描に長けていた その子 内海吉造は明治初期に金沢九谷で活躍した)、任田屋徳次(赤絵細描の技法で手腕を発揮した)らがいました。

参照;再興九谷 民山窯

木崎窯の赤絵細描画

飯田屋八郎右衛門の赤絵細描画に先立つ数年前の天保2年(1831)、木崎卜什が現在の山代温泉新村(しむら)で絵付窯を築き、赤絵金彩の作品を制作しました。子の万亀も卜什によく似た八郎手風の赤絵細密画を描き、“九谷赤絵”を先駆するものと称されます。

木崎万亀の赤絵(石川県九谷焼美術館)

卜什、万亀の二人が仁和寺御室御所に出仕していたころ、京焼では「赤色」を多用する磁器が奥田潁川の弟子の青木木米、二代 仁阿弥道八、初代 水越輿三兵衛らによって、また、金襴手が永楽保全によって制作され、二人とも京焼の雅趣溢れた色絵磁器に惹かれたと考えます。

参照;九谷焼 江戸末期の他の諸窯 木崎窯

宮本屋窯の赤絵細描画 

宮本屋窯の絵付主工であった飯田屋八郎右衛門は「八郎手」の画風を築きました。八郎右衛門は、大聖寺町で代々続いた染織業を営む父から染色技法を修得した染色職人で、31歳のとき、宮本屋窯の絵付の主工へ転じました。八郎右衛門の師が誰であったかは不明ですが、江戸末期に流行った加賀友禅小紋の染色技法を活かして、陶画工に転ずることができたとみられます。その染色作業は白い布の上に加賀五彩(臙脂色・草色・黄土色・古代紫・藍色)の染料で文様を手描きする技法で、磁器の絵付技法に似ていました。

八郎手の赤絵細描画(石川県九谷焼美術館)

「八郎手」の特色は方氏墨譜から得た中国風の人物・山水・楼閣・動物などをモチーフにした図案と、その周囲を小紋で埋めた赤絵細描画でした。そして、八郎右衛門は、鮮やかに発色した「赤色」を、宮本屋窯の近くですでに窯を開いていた木崎窯の木崎卜什の赤絵金彩の作品や京焼の奥田潁川の呉須赤絵を研究したとみられ、ほかにも、小野窯、民山窯、潁川の弟子たちの作品なども参考にしたといわれます。

八郎右衛門が築いた「八郎手」の赤絵細描画は、明治期になって、竹内吟秋、浅井一毫らが完成させた“九谷赤絵”の先駆を行くものでした。

参照;再興九谷 宮本屋窯

斎田伊三郎の佐野赤絵

佐野窯を開いた斉田伊三郎は、多くの門人たちに陶技全般を惜しげもなく教え、彼らが独立した後も、彼らと共に素地から絵付まで行う“赤絵の村”を築きました(赤絵村の誕生)。弁柄の「赤色」を多用した赤絵細密画は、上述の「八郎手」と異なる趣を見せています。白い余白をバランス良く置いて「弁柄」の「赤色」で図案や文様を細描し、加えて、金彩の二度焼き技法によって金が鮮やかに発色し、赤絵金彩も加わりました。これらの画風は、江戸末期から明治大正にかけ、一世を風靡した赤絵細描画の一翼を担いました。多くの門人たちによってこの「佐野赤絵」が継承され、現代に受け継いだ福島武山氏は今も「吹屋弁柄」を用いて「佐野赤絵」を描き続けています。

佐野赤絵(寺井町指定文化財)

参照;再興九谷 佐野窯

 

上述のように、再興九谷で「弁柄」の特性を活かした赤九谷が制作されました。江戸末期、陶画工を志した加賀の若者たちの中には、文化的に繋がりが強く、製陶技術の開放された先進地の京都に向い、磁器の絵付を修業した者や、すでに京都で活躍した者などがいました。彼らは加賀に戻り、「吹屋弁柄」と呼ばれる「弁柄」の鮮やかな「赤色」に惹かれ、「赤色」で図案や文様を表現し、やがて、”九谷赤絵”と呼ばれるまでに高度な作品を制作しました。

次の「九谷赤絵を生んだ吹屋弁柄」では、どんな特性が「吹屋弁柄」に備わっているのか、江戸末期に、その弁柄が現在の岡山県備中高梁市成羽町吹屋においてどのように高度な技術で大量に製造され、磁器の絵付以外にどんな用途に拡がったかを述べます。

資料;図録「乾山と京のやきもの展」NHKプロモーション

 

 

 

 

 

 

斎田伊三郎 その2 日本人にとっての「赤色」

江戸末期、「赤色」の際立つ九谷焼(色絵や青手に対し赤九谷と呼ばれた)が焼かれると、瞬く間に加賀中に広まりました。その様式美が高く評価され、明治中頃に、一部の赤九谷が“九谷赤絵”と呼称される一つの様式に分類されるまでになりました。

なぜ、物を「赤色」に塗ったのか、その意味を調べてみると、塗られた物や時代によって意味が異なり、「赤色」に対する人々の想いも異なることがわかりました。さらに、人々が日常で「紅白」(本来なら、赤白ですが)を祝い事などに取り入れ、ときに「紅白」で“ハレ”を演出し、我が国では、基本的な色相の一つとして根付きました。こうして、赤九谷においても白い素地を多く残した赤九谷も特別な意味や想いが込められたと考えます。

ところで、「赤色」の色名が初めて文献に登場したのが8世紀ころで、下記の「朱(しゅ)」「丹(に)」「代赭(たいしゃ)」「紅(べに)」「緋(ひ)」「臙脂(えんじ)」「蘇芳(すおう)」といわれ、その後も赤色系の色名が造り出され、現在、ある辞典には99の色名が記載され、染料においても同様に数えきれないほどあります。

一方で、「赤色」系の顔料についていえば、江戸末期までは「赤土弁柄(あかつちべんがら)」「朱」「鉛丹(えんたん)」だけで、しかも豊富とまでは言えませんでした。そこで、本稿において、これらの「赤色」顔料が何に用いられたかを知り、次に「赤色」の際立った色絵陶磁器において、江戸末期に製造された良質の「弁柄」によって京焼が絵付されたことで、その「赤色」顔料が九谷焼に伝播し、佐野赤絵が誕生した経緯を概観します。

*顔料と染料の意味-溶剤に溶ける着色剤を染料、溶けないものを顔料という。染料が溶剤に溶け、複数の色を混ぜ合わせることで比較的容易に新たな色を作ることができるのに対し、顔料は溶剤と混在する状態を保つので、顔料そのものに近い色相が現れます。そして、顔料が染料に比べて耐光性や耐水性に優れていることから、塗料、絵の具、化粧品などに用いられます。

赤土で造った最初の「赤色」顔料-赤土弁柄

我が国の顔料の歴史に最初に登場した「赤色」顔料は、「赤土弁柄」といわれ、赤鉄鉱の風化された細粉を多く含む土壌や赤みの強い粘土系の土壌などを指しました。縄文・弥生時代の“赤土”の色相は地域によって異なり、科学的には、“赤土”に含まれる酸化第二鉄の赤い結晶粒子が多く含まれるほど、明るく赤い色相であったといわれます。この「赤土弁柄」は日本の各地で見つかり、丹土(につち)とか赤泥(せきでい)などとも呼ばれ、こうした露天の土壌を原材料にして「弁柄」の原型ができました。それからずっと後に陶磁器に用いられることになった「吹屋弁柄」は酸化第二鉄の赤い結晶粒子が多く含まれていたので、九谷焼では、赤絵細描画を生んだと考えられます。

酸化第二鉄の採掘跡(青森県東津軽郡今別町)

「赤土弁柄」で塗られた物からわかることは古代人の「赤色」に対する想いです。古代人は「赤色」に生命力を感じ、健康や長寿・再生(蘇生)を祈る神聖な祭事や風習において用いた重要な器具類を、また別のある地方では祭事に携わった人の体を「赤土弁柄」で塗りました。縄文時代に古代人が世界で初めて土器に赤く塗ったことに驚かされ、他にも、土器、土偶、壺などを神聖な想いで赤く塗ったと考えられます。

   

   上山遺跡巻貝形土品(縄文時代)  朝日遺跡出土品(弥生時代)

その後も引き続き用いられ、奈良時代に行われた正倉院の宝物の彩色に「赤土弁柄」が用いられていたことが確認され、その後も各地の寺社の金堂、塔、門などを「赤土弁柄」とそれに類した「赤色」顔料で塗られました。 

辰砂鉱石による赤色顔料「朱」

上述の「赤土弁柄」より少し遅れて、8世紀ころ「朱」が登場しました。主原料の辰砂鉱石そのものが色鮮やかであったので、それを絵の具に加工しました。弥生時代から平安時代にかけて辰砂鉱石が西日本で発掘され、その鉱山跡と思われる地名が西日本に多くありますが、「丹生」(にう)が付く地域は辰砂鉱石と関連ある地域でした。

辰砂鉱石

「朱」は、“朱色(しゅいろ)”とか“朱赤(しゅあか)”といった言葉のとおり、「赤土弁柄」より鮮やかな「赤色」の色相を見せます。このため、「赤土弁柄」よりも重要な意味や想いを持って用いられ、古墳内の人物埴輪、墳墓、石棺、壁画などを彩色するための絵の具に用いられました。飛鳥時代の藤原京に築造された高松塚古墳(奈良県高市郡明日香村)に見られる壁画の「赤色」は“水銀朱”(辰砂鉱石から造られた「朱」と意味)と「赤土弁柄」で塗られました。下の画像の右の女性の細い帯が“水銀朱”で重ねて塗られ、中央の女性の上着が「赤土弁柄」で塗られています。これは、高貴な人物の埋葬に合わせて器物や置かれた場所の壁が“神聖”であると考えたからです。

高松塚古墳壁画

平安時代に、「朱」の用途が漢方薬や朱漆、朱墨などに拡がり、江戸時代には、仁清が「朱」を京焼に初めて用いて、京風な雅のある色絵陶器を創製ました。ただ、仁清は焼かれた色絵陶器の「赤色」が鮮やかでなかったことから、後世、もっと鮮やかな「赤色」を取り入れるようになりました。

 丹塗りに使われた赤色顔料「鉛丹」

江戸末期に「吹屋弁柄」が現れるまでは、「赤色」顔料といえば、奈良時代までに出現した「赤土弁柄」「朱」と次に述べる「鉛丹」だけでした。時の為政者は大量の「赤色」顔料を求めました。その理由の一つに、平安、鎌倉時代に相次いで大規模木造建造物が建てられ、それらを虫害・腐食から保護するための塗装が必要であったからでした。本当は、それらの創建に直接携わった人々が建物の荘厳さを高めるため、あるいは、当時の為政者が自らの権威の象徴として視覚的な手段として赤く塗ったからです。「赤色」にはそうした意味や想いがあり、一般の人々も「赤色」に塗られた建物に尊厳さを感じたと思われます。

大仏殿内部の丹塗り

ところで、仏閣の部材を赤く塗る様式は仏教伝来(552年頃といわれる)と共に伝わり、その顔料の製法も伝わり、「鉛丹(えんたん)」と呼ばれ、やや黄色がかった、明るい「赤色」顔料で、膠水(にかわすい)で溶いて用いました。唐招提寺金堂や薬師寺東塔の天井に、白色の地に赤、黄、青、赤紫、黒の極彩色で文様が描かれていますが、この「赤色」顔料は主に「鉛丹」で、「赤土弁柄」も文様の輪郭線に用い、正倉院の宝物の一部も「鉛丹」で塗られたといわれます。

ただ、仏教伝来のとき伝わった製法では効率良く大量に造れなかったため、必要な「赤色」顔料が確保できない時代がしばらく続きましたが、14世紀(鎌倉時代末期)に「鉛丹」の新しい製法が明から導入されると、大阪堺の朱座(朱の製造販売を行った問屋の同業者組合)で「鉛丹」が効率良く造られるようになりました。こうして、室町時代以降、「鉛丹」の生産量が増えていき、時の為政者は宮殿、地方の役所、神社仏閣を「鉛丹」で塗装することによって権威や荘厳さを高めたと思われます。

また、その頃、船が輸送手段として使われ始めると、「鉛丹」が船底塗料にも用いられ、また絵画の絵の具にも広がりました。この結果、朱座(「朱」を取り扱う問屋組合)の「鉛丹」の生産量が本来の「朱」を上回ったことから、「朱」の別名である「丹」(に)を「鉛丹」の呼び名に用いるようになり、「鉛丹」で塗ることを「丹塗り(にぬり)」と呼びました。後世になって「鉛丹」に毒性があるため「鉛丹」が使用されなくなっても、顔料の種類に関係なく、神社仏閣の部材を「赤色」で塗ることを「丹塗り」と呼び続けているといわれます。

弁柄の代用品から「吹屋弁柄」へ

しばらくの間、「赤土弁柄」「朱」の量や質が変わらず、16世紀中ごろから江戸時代の鎖国の間でも、これらの顔料が南蛮貿易や長崎貿易を通して輸入されました。「朱」「丹土(にど)」(弁柄の原料となった赤土弁柄のこと)などの顔料が長崎に輸入され、大阪や江戸の問屋に回され販売されました。それでも、需要に追いつかなったため、大阪道修町の絵の具屋、薬種商から安くて大量の「赤色」顔料が求められました。

このため、「丹土」の開発が行われたようで、摂州多田銀銅山(現在の兵庫県川西市猪名川町および大阪府池田市にまたがる鉱山)で「丹土」が運上物であったとの記録が残っています。ここ以外にもあったようですが、十分でなかったと思われます。

次に採られた方策は、明和年間(1764-1772)から10年くらい続いた「鉄丹弁柄」で、大阪で銑屑(堺の鉄鋼製から出た鉄のけずり屑など)を利用して造られました。その製法は、3年から5年の間、鉄屑を風雨に晒してボロボロで茶褐色になった鉄屑を粉砕しそれを焼いて、さらに粉砕したものでした。これを造った業者は「朱」「鉛丹」を製造販売した堺の数十軒の問屋でした。

  

復元鉄丹弁柄            吹屋弁柄

一時、この「鉄屑弁柄」は大商人の大店(おおだな)の弁柄格子の塗装に用いられ、まさに大阪や京都の大商人が威厳を示すためでした。そして、上方浮世絵(大阪、京都の浮世絵)にも用いられ、これまでの墨絵と区別して、その浮世絵は「丹絵」「紅絵」と呼ばれ、部分的に「赤色」で彩色されました。浮世絵の作者が「赤色」を用いた意味は、「赤色」を配色した人物は正義感溢れた人物であることを表わし、別の作者は“赤っ面”で敵役(かたきやく)の家来や手下であることを表わし、人気を呼びました。

しかしながら、「鉄丹弁柄」がその製造に時間がかかりすぎ、品質的に難点がありました。「赤色」がやや暗いこと、粒子が硬くて擂り潰すのに手間がかかったこと、粗かったために均一に塗るために手間がかかったことです。そのため、「鉄丹弁柄」の需要は伸びず、寛政年間(1789-1801)に大阪の別の問屋が良質な「吹屋弁柄」を扱うようになると、「鉄丹弁柄」は姿を消していきました。

「吹屋弁柄」が広がっていった背景に疱瘡絵がありました。江戸末期、疱瘡(ほうそう)が流行ると、人々は「赤色」一色で刷り込まれた疱瘡絵(浮世絵)を買い求めることが度々ありました。古代人がそうであったように、当時の人々も「赤色」には魔除けの意味があると信じていたからでした。摺り師が版木に赤色を付け、濃くするところは重ねて色付けするので、「吹屋弁柄」がなかったら、人々は疱瘡絵を手にすることができなかったといわれます。

疱瘡絵の一例

さらに、「吹屋弁柄」を京焼の新進陶芸家 奥田潁川が呉須赤絵写しに用いると、人々はその「赤色」に惹かれたといわれ、それは「吹屋弁柄」の高い品質と鮮やかな発色が得られたためでした。やがて、京焼の色絵陶磁器全体に拡がり、さらに、加賀の地に伝播しました。これらの陶磁器を見ると、多くの陶画工が作品の上でそれぞれの想いを、「赤色」を用いて表現したことがわかります(参照;「赤色」の際立った色絵陶磁器)。

資料

『大地の赤 ベンガラ異空間』(INAXライブミュージアム)

『顔料の歴史』(絵具講座第Ⅱ講 鶴田榮一)

『伝統のベンガラから新規な赤色酸化鉄への研究展開』(岡山大学 高田 潤 中西 真)

古九谷の呼称「古九谷」か「古九谷様式」か

2022年11月に行われた東京国立博物館(東博)の今井敦氏による講演を聴いていたとき、「古九谷」と呼ばれる磁器の産地は加賀(現、石川県)であり、「古九谷様式」とキャプションの付いた磁器の産地が必ずしも有田産の色絵磁器でないと知らされました。あらためて、「古九谷」を古伊万里の一部であるかのような呼び方が適切でないと見直されていった経緯を振り返ってみます。

1. 国会での論議「すべて古九谷様式というふうにすることは適切でない」

古九谷色絵竹叭々鳥文大皿 文化遺産オンライン (nii.ac.jp)

(上をクリックしてください)

現在、文化財オンラインでは「古九谷 色絵竹叭々鳥文大皿」と表示されていますが、今から11年前の平成23年(2011)7月23日の衆議院文教科学委員会において下記のような論議がありました。この背景には、平成19年、文化庁と九州国立博物館主催の日本のやきもの展において、重要文化財と指定された「古九谷」が“伊万里古九谷様式”と展示されたことを受け、展示者とか展示場所で呼び方をあえて替えたことで混乱を生みだしたからと思います。国会の答弁の概要は次の通りです。

【衆議院文教科学委員会での質疑概要】と

質問者 衆議院議員 馳浩(現、石川県知事)

答弁者 文部科学大臣 高木義明 政府参考人 文化庁長官官房審議官 吉田大輔

<馳委員> 文化財保護法では、文化財のうち重要なものを重要文化財として指定しています。その一つに「古九谷 色絵竹叭々鳥文大皿」があります。これを重要文化財に指定したときの古九谷とは学術上どのようなものを考えていたのか、お聞かせください。

<吉田政府参考人> ご指摘の「古九谷 色絵竹叭々鳥文大皿」につきましては、昭和27年3月29日に国の重要文化財として指定をしております。指定当時におきましては、一般的に、江戸時代初期に現在の石川県加賀市内で描かれたとされる色絵付きの磁器のことを、古九谷ということで認識をしておったところでございます。

<馳委員> 現在、東京国立博物館を初めとする独立行政法人の国立博物館では、古九谷を、伊万里古九谷様式もしくは伊万里焼として展示しています。これは、かつて石川県で制作されたと言われた古九谷が、すべて佐賀県伊万里、つまり有田で制作されたものと断定してのことと思いますが、こうした伊万里古九谷論争は、器と絵付け産地の問題も含め、近年の調査研究では反論資料も出てきており、決着していない問題です。この問題について、国立博物館では断定的な表示を行っていますが、これについてはどのように判断をしておられるのでしょうか。

<吉田政府参考人> 一般論といたしまして、独立行政法人国立文化財機構が設置する博物館において展示される文化財の表示につきましては、機構の責任において行われておるものでございまして、国として、それについてはコメントする立場にはないかと思います。

なお、この点につきまして、機構からは、ご指摘の表示については、関係学会における学術研究の成果などを踏まえまして、当時の肥前で焼かれたと考えられるものについては、産地を伊万里とし、分類を古九谷様式として表示したというふうに聞いております。

<高木国務大臣> 今の、重要文化財の指定が実際の展示物として表示されていないというのは非常にわかりにくいことで、私としては、ちょっと実態把握をしてみたいと思います。

<吉田政府参考人> その名称の中に産地名や分類名を示す部分が含まれている文化財につきましては、簡潔に、かつ観覧者にとってわかりやすく表示するという観点から、基本的に、これらの産地名や分類名を示す部分を区分いたしまして・・・江戸時代初期に九谷で焼かれた色絵磁器は、少ないながらも存在をしております。現在、古九谷とされております色絵磁器をすべて古九谷様式というふうにすることは適切でないとは思っております。

2.独り歩きした「古九谷様式」

この国会の論議より3年前の2009年 10月に開かれた、東洋陶磁学会における第4回研究会において今井 敦氏(東京国立博物館)が発表した『古九谷様式の色絵磁器について』をきっかけにして「古九谷」と「古九谷様式」とが分けて考えられるようになり、「古九谷様式」が独り歩きしたようです。その論文の一部を紹介します。

「古九谷問題の混乱の一因は、あまりにも多様な内容の磁器が「古九谷」の名のもとに括られている点にある。大河内正敏が提唱した「古九谷」から、その後、藍九谷、吸坂手、初期の輸出色絵などが次々と外されていったが、「古九谷」の枠組み自体を実証的に見直すことはなぜか行なわれなかった。そして残された五彩手、青手、祥瑞手の三種をひとまとめにしたままで「古九谷様式」と呼びかえたために、これらがあたかも一つの「様式」であるかのような印象を植え付ける結果となってしまった」

こうして、都内のいくつかの美術館では「古九谷様式」の解説や展示物のキャプションが見られるようになりました。

(1)2010年6月五島美術館学芸員によるギャラリートークにおいて

「肥前有田では、初期の作風は当時の中国景徳に青花に似るが、古九谷様式と呼ぶ独自の色絵磁器を製造し、その後は鍋島藩の管理のもと、国内で唯一の磁器窯として発展する。最も初期の色絵磁器である」

ただ、この説明を聴く前に耳にした下記の会話から、いまだ「古九谷様式」が何であるかを理解されていないと思われました。

お父さんは「古九谷の青は、本当に有田で焼かれたのかなあ・・・」といい、お母さんは「当時の有田の技術であったら、できたと思うわ」といいましたが、娘さんは「でも、この青や緑が有田にないから、それも不思議ね」

(2)2011年6月根津美術館の当時の副館長 西田宏子氏による講演で

古九谷産地論争に関連して西田宏子氏は未だはっきりしていないと述べていました。

「産地が伊万里であることを証明したいが、(発掘調査には多くの資金が必要で)資金不足でできていない」「素地の全部が全部、肥前のものでないといわれているが、決定的な結論は出ていない」「では、何と呼ぶか、古九谷様式と呼ばれることも考えられるが、今後の課題である」

3.平成25年(2013)ころに「古九谷様式」の呼称変更の兆し

文化庁と独立行政法人の国立博物館が何らかの議論があったのか不明ですが、平成25年(2013) 3月 に東洋陶磁42号に掲載された今井 敦著の『「古九谷」概念の形成と変遷について-「古九谷様式」の再検討-」の中で、今井氏は次のように述べ、加賀で九谷焼(再興九谷を指したと思われる)が造られることになったのは、「古九谷」が加賀固有の「伝統工芸」であったことによると指摘しています。

「東京国立博物館の前身である東京帝室博物館では、昭和6年(1931)と昭和9年(1934)に購入と寄贈によって古九谷を収集しており、おそらくこの頃には古九谷が古陶磁のジャンルとして認知されていたものと考えられる。このように見てくると、現在に通じる古九谷の概念の骨格が固まったのは、早くても昭和初期のことと思われる。「九谷」が加賀産の陶磁器の代名詞となったことからわかるように、「古九谷」は近代の窯業生産地である加賀にとって「必要とされた伝統」だったのである」

4.現在の美術館や博物館での表示はどうなっているか

根津美術館での現在の表示

文化庁が「一般論といたしまして、独立行政法人国立文化財機構が設置する博物館において展示される文化財の表示につきましては、機構の責任において行われておるものでございまして・・・」と答弁したように、美術館や博物館において独自の責任において適切な表示と説明がなされていると考えます。

現在の根津美術館のHPを見ると、上の画像のように「色絵山水文大鉢(青手)古九谷様式」と表示されていますが、11年前に当時の副館長西田宏子氏が「何と呼ぶか(中略)今後の課題である」と述べてから、調査研究した末に、「有田で1650年代に作られていたことが明らかになった」とコメントを加え説明していると考えられます。

齊田伊三郎 その1 “赤絵の村”の誕生

今も“佐野赤絵”と呼ばれる九谷焼が誕生した地は江戸末期に能美郡寺井村の一集落であった佐野の集落(現、石川県能美市佐野町)でした。明治時代に入ると、九谷焼といえば、赤九谷といわれたほど、特に赤絵細描の九谷焼が高く評価されましたが、その一翼を担ったのが“佐野赤絵”でした。その生産地“赤絵の村”が形成される道を開いたのが齊田伊三郎(晩年、道開と号す)であり、伊三郎を受け継いで“赤絵の村”を確立させたのが伊三郎の門人たちと窯元(素地窯の主)たちでした。

佐野の集落(以下、佐野と略す)は金沢までは約20㎞ですが、寺井村の中心部へは北西に約2㎞、小野窯へは南西に約1.8㎞、さらに2㎞ほど行けば若杉窯でした。近隣に二つの再興九谷の諸窯があり、寺井に開かれた九谷庄三の絵付工房から直ぐ近くの佐野で、齊田伊三郎によって創り出された“道開風”の赤絵が門人たちによって磨き上げられ、九谷焼全体に大きな影響を及ぼしたため、いつしか佐野を“赤絵の村”と呼ぶようになりました。

齊田伊三郎は寛政8年(1794)に佐野の農家に生まれ、16歳のとき、若杉窯で本多貞吉や三田勇次郎から薫陶を受け、さらに、有田焼や京焼の先進的な磁器生産地で陶芸を学びました。天保元年(1830)、36歳のときに佐野に戻ってからしばらくの間は、若杉窯や小野窯の間を通い、修得した技術をもってこの二つの窯元で陶芸を指導しました。その後、天保6年(1835)に佐野の自宅に絵付工房と上絵窯を開き、独自の画風と絵付技法を開発しました。合わせて、工房に教えを乞うてやってきた、松屋菊三郎(蓮台寺窯や松山窯を築いた)、牧屋助次郎(詳細不明)、高堂の磯吉(後の小坂磯右衛門)、大長野の文吉(後の東文吉)などのほか、佐野の若者たちに惜しげもなく陶画の技法を教えました。

彼らは、やがて独立して陶画工となりましたが、佐野の若者たちの中から“伊三郎の直弟子”と呼ばれた門人たちが育ち、早くて4,5年後、長くて8年から10年後に陶画工として独立しました。明治元年に伊三郎が亡くなる前に佐野で独立したのが、二代 斎田伊三郎、米田宋左衛門、多賀太三右衛門(弘化3年に独立に)、亀田平次郎(後の山月、文久2年に)、西本源平(慶應元年に)、富田平次郎(後の松鶴、慶應3年に)、今川間右衛門、三川徳平らであり、近隣で独立したのが高堂の小坂磯右衛門、大長野の東文吉でした。そして、伊三郎が亡くなった後に独立したのが、橋田与三郎(初代の与三郎、明治元年に)、道本七郎右衛門(明治3年に)、田辺徳右衛門、齊田忠蔵(実弟の子)らでした。初代 与三郎が伊三郎の亡くなった明治元年に他の門人たちより遅く独立したことには興味深いところがあります。

下図「明治五年居住地明細図」は明治5年の神社記録に記載された佐野の住居145戸の位置を示したものです。その記録には、農業の住居71戸のほか、窯元の住居5戸、陶画工の住居22戸、兼業の陶画工の住居2戸などがあったと書かれているようです。さらに「佐野町史」にはその145戸の住民名(二代・三代目も)が書かれ、齊田伊三郎(初代・二代)の住居、“伊三郎の直弟子”の住居のほか、橋田与三郎(初代)の門人であった西野仁太郎、三輪鶴松らの住居や亀田平次郎の門人であった亀田惣松、玉川清右衛門らの住居もあり、また伊三郎の指導で素地窯を築いた窯元たち(後述)の住居、明治20年以降に事業を開始した陶器商人たちの住居(石崎、増田、沢田、坂ノ下、東、山近などの家)もあります。そこで、それらの住居を明細図に色分けして表示してみると、文字通り、佐野の“赤絵の村”の姿が見えてきます。

上の明細図を見ると、齊田伊三郎の住居の周りには門人たちの住居があり、師弟が近隣に集まって暮らしていたことがわかります。門人たちは師から教えられた技術で絵付を繰り返し、その技量を高めていったことが想像できます。 “道開風”の様式を修得するには時間を要したと思われ、師弟が近くで住んでいたことは自分の上絵窯を持てなかった門人たちにとってよかったと考えられます。こうして、門人たちは師の伊三郎の住まいから近く良い環境の中で養成されたと思います。

こうして、伊三郎によって生み出され、門人たちが磨き上げた“道開風”はこれまでになく精緻で独特なものであったので、当時の多くの陶画工の間で高く評価され、自然と彼らの画風に影響を及ぼしました。それだけに、明治元年に齊田伊三郎が没した後、明治8年(1875)、橋田与三郎(初代)は“道開風”の絵付技法の維持とさらなる発展のために、亀田平次郎らと協力して「画工十五日会」を結成しました。その会は延々と継承され、昭和27年(1952)に絵付協同組合に吸収されるまで80年近くにわたり続き、“佐野赤絵”が今に伝わることとなりました。

もう一つ、齊田伊三郎が佐野に遺したのが素地窯でした。伊三郎は本多貞吉から陶芸の基本を学び、その後も有田や京の窯元で陶芸を修業した経験から、佐野赤絵のために素地窯を佐野に築くことを考えていたと考えられます。伊三郎は絵付工房で若杉窯、小野窯、松山窯(江沼郡)などの素地を使いながらも、佐野赤絵に最適な素地を模索していたと思われます。そうこうするうちに、佐野の与四兵衛山で磁石(佐野石)を発見したのを機に、伊三郎は集落の中川源左衛門に素地窯を築くことを勧め、ついに、安政5年(1858)に素地窯を完成させました。その後、中川源左衛門の窯に続き、三川庄助、深田仁太郎も築いたので、佐野には素地造りから絵付までの一貫した生産体制が整いました。

それらの窯元では、佐野石、花坂石、鍋谷石を運んできて、佐野用水の窯元共同水車小屋または八丁川の白崎家の水車小屋で粉砕しました。それぞれの砕石を坏土工場で坏土に加工し、用途や陶画工の要望に合わせてそれらの坏土の割合を変えて調合し、その坏土を使って熟練のロクロ師たちが成形しました。成形された素地は素焼きされ、その上に釉薬をかけて素地窯(本窯)で焼成され、その素地が陶画工に渡りました。

この素地造りにおいても、窯元と陶画工の住居が同じ集落の中にあったことから、陶工と陶画工が協力しながらもそれぞれの本領を発揮する環境が醸成されました。陶工と陶画工は話し合って、絵の具と相性の良い釉薬を調合して、剥離が起らない、滑らかで緻密な素地を造ることで協力し合いました。この共同体制は、明治元年に斎田伊三郎が、明治24年に中川源左衛門が亡くなった後も維持され、中村弥左衛門、南仁三郎、橋田庄三郎、高橋仁八、中村文太郎、宮本俊孝、三川庄助(二代)のいわゆる“窯元七軒”の登り窯が“茶碗山”の斜面に並んだといわれます。こうして、佐野に構築された生産体制から“赤絵の村”全体を“佐野窯”と呼ぶようになったと考えられます。

上述した窯元の一部の住居も明細図に青で示していますが、それらの住居が明細図の右隅の集落外れに固まっているのがわかります。素地窯は“茶碗山”の斜面を利用し、黒煙や防災のため一般の住居から離して築かれ、また広い敷地も必要であったことから集落の外れに集まったと見られます。ただ、佐野で最初の窯元となった中川源左衛門の住居が齊田伊三郎の住居の近くにあったのは中川源左衛門が伊三郎から築窯、坏土造り、釉薬について技術的指導を度々受けるためであったと考えられます。こうして、素地窯全体の技術が確立されたので、“窯元七軒”は素地窯の立地に適した茶碗山の斜面に築かれたと考えます。

佐野は古くからの集落でしたので、いろいろな職業を生業とする住居があったといわれますが、江戸末期から佐野赤絵の製造に係わる職人などの住居が増えていき、佐野が文字通り“赤絵の村”に形成されたと考えられます。ただ、佐野の“赤絵の村”ができた経緯が有田焼の“赤絵町”とは異なるように思われます。江戸時代に有田焼では柿右衛門の色絵そのものを“赤絵”と呼んだので、有田の中で絵付を集中的に流れ作業で行った区域を“赤絵町”と呼びました。素地は町の外から運び込まれ、絵付だけを行いました。柿右衛門のような窯元は有田では数軒しかなく、その陶技は門外不出でした。また、鍋島藩は絵付の技術が外部に漏れることを怖れ、絵付の職人には図案の一部分しか絵付させないようにしました。こうして、大勢の職人たちは赤絵町に閉じ込めて流れ作業の一部を担当したので、職人たちの絵付の技能が上がることはなかったといわれます。

これに対し、斉田伊三郎は、佐野の内外から集まった多くの門人たちに先進的な陶技を教え自らは“佐野赤絵”を創り出し、自由に“道開風”を伝える風土(赤絵の村)を醸成しました。現在、“佐野赤絵”の第一人者として佐野町で工房を開き、また門人たちの育成を励んでいる、福島武山さんが能美市制作のホームページで、齊田道開と“赤絵の村”への思慕を熱く述べられていますので、特に印象的な部分をここに引用させてもらいます。

『佐野は、赤絵が始まって200年足らずですけど、道開さんが若いときに自分の足で有田とか瀬戸とか、そういう所まで行って陶技を極め、この地で窯を開いて、そして赤絵を描き出したんですね。昔、佐野の村は赤絵の村っていわれたんです』

『私が佐野町に来た頃には数人が細々と赤絵付をしているだけでした。その当時、しばらくすると高度経済成長の波がきて筆を持って絵付けをするなんて、そういうたるい(=ゆるい)ことをしていても売上げが伸びないということで多くの人が筆を離してしまいスタンプとか転写に移ったんですけど、そこを私は手描きでやっていくと決めていたんです』

『以前のようにたくさんの職人さんはもう望めないと思いますが、産地能美市としていいものを作る人が育てば、人が人を呼んでいくと思います。(省略)その人たちはみなさん絵を描いていますから希望があります。能美市佐野町というのは、九谷焼ではほんとに大きな名前なんです』

この章に引き続き、何故に「赤色」多用した磁器を造ったかを探る前に、日本人にとっての「赤色」では、「赤色」がどんな意味や想いをもって生活の中で器物や神社仏閣が赤く塗られ、さらに、続く章では、佐野赤絵を含む、「赤色」顔料が多用された「赤色」の際立った色絵陶磁器を概観して、赤色を多用した意味や想いについて考えます。そして、最後の章(仮称;佐野赤絵と吹屋弁柄)で、佐野赤絵にも用いられた「赤色」顔料の「弁柄」の特性を活かして描かれた佐野赤絵の赤絵細描画についても概観する考えです。

引用資料

①「佐野町史」(昭和56年佐野町史編纂委員会発行)

② 能美市ホームページ「したいこと、能美市だったら叶うかも 九谷焼 福島武山さん」

 

横浜九谷・神戸九谷の素地

九谷焼は石川県内で素地造りから絵付まで一貫しておこなわれ、明治時代には、“ジャパンクタニ”の名のとおり、日本を代表する彩色磁器として欧米から高い評価を受けました。この九谷焼が石川県の陶器商人の手によって主に横浜港、神戸港から輸出されると、その一部がそれぞれの港の近隣で製作されるようになり、産地名(この場合は絵付をした場所)を冠して横浜九谷、神戸九谷と呼ばれました。

それらの輸出九谷に使われた素地にはコーヒーカップなどの食器や万国博覧会に出品するような大型の花瓶などの真っ白で滑らかなものが求められましたが、明治初期の石川県内ではこれまで製作した経験がなく、当時の素地がいまだ開発改良の段階にありました。この“明治初期の素地事情”については、ウェブサイト九谷焼解説ボランティアの「3.九谷焼の陶工・陶画工・指導者・陶器商人-明治九谷を支えた陶工と素地窯」で述べられています。

そこで、横浜港や神戸港の近隣では、コーヒーカップなどの食器への需要が高まるにつれ、両港の近隣には素地の産地がなかったため、現地の陶器商人は有田、瀬戸、京都などから素地を運んできて絵付することを兼業としました。輸送費や成形の技術力を考えて素地の産地やメーカーを選んだと考えられます。例えば、有田の陶器商人 田代屋は、明治4年(1871)に横浜港で田代屋を開店させると、当初は有田か三川内の素地を使いましたが、成形技術のある瀬戸産の素地に九谷風の赤絵を絵付しました。その後、横浜焼の陶器商人の中でもリーダー的存在となった井村彦次郎も瀬戸産素地を主に使って九谷焼、有田焼などを融合した“横浜焼”を製作販売し成功を収めました。

横浜焼が盛んに製作、輸出されるようになると、石川県の陶器商人の松原勘四郎商店が明治8年(1875)に初めて横浜に進出し、少し遅れて、綿野吉二が明治12年(1879)に横浜港からパリへ向け九谷焼の直輸出を試みて横浜港からの輸出が有望であると見て、翌年に支店を神戸から移したのに続き、明治15年(1882)に綿谷平兵衛が、明治18年(1885)に織田甚三商店と綿野安兵衛が次々に支店を構えました。そして、綿野吉二を除いて、九谷焼の陶器商人は輸出業に加え絵付業を始めました。特に、織田と綿野(安)はエッグシェルタイプ(卵殻手)に適した素地(主な産地は三川内皿山)に幾何学的な模様を描いた食器を製作し欧米に販売しました。

そうした中でも、綿野吉二は石川県での素地造りと絵付にこだわりました。綿野は石川県産素地の品質が国産や欧州産に比べ劣っていたことがわかっていたので、八幡村の陶工 松原新助らとともに、これまでの素地窯をフランス式の円型窯に改築して、素地の品質を改良し、食器などの素地の規格化を図り、合わせて陶画の質も改善しました。こうして、明治20年(1888)ころから、横浜焼と比肩できるだけの九谷赤絵の製品を製作できるようなったと考えられます。“横浜九谷の真髄”といわれる花瓶が田邊哲人コレクションの中に収集されていますが、左の画像の花瓶(個人蔵)は、そのコレクションの花瓶と酷似していることから、おそらく、そのころに一緒に製作されたと考えられます。

一方、神戸港は、明治元年(1868)、横浜港に比べ8年程遅れて開港しましたが、横浜港では外国人居留地が造成されたのに対し、神戸港では外国人が日本人と一緒に住むことが許されたことから、外国人の衣食住に関わる商品やサービスを提供する商店が今の元町、栄町辺りに続々開かれました。明治7年(1874)年、神戸の商人 北儀右衛門は、元町通に宇治茶・珈琲・紅茶・九谷焼を売り捌く店舗「放香堂」を開店しました。北儀右衛門はコーヒー豆を最初に輸入した日本人であり、放香堂では“印度産珈琲”の豆を外国人向けに販売し、店頭でコーヒーの提供も行い始めたので、自然に、コーヒーカップも商品として扱うようになったと考えられます。

明治9年(1876)に、九谷焼の陶器商人 綿野源右衛門(綿野吉二の父)などが神戸に支店を開き、神戸港から九谷焼の輸出を始めていたので、北儀右衛門は陶器商人などから九谷焼のコーヒーカップを購入し、それを使ってコーヒーの提供をしました。おそらく、綿野吉二が明治13年(1880)に支店を横浜に移したのをきっかけに、コーヒーカップなどの食器に向いた素地を近くの素地の産地から購入し絵付することを始めたと考えられます。主に、瀬戸から素地を取り寄せ、能美・金沢の陶画工を雇い九谷風の絵付を行いました。こうして、九谷焼の他に薩摩焼、京焼に似た絵付が行われ、その陶画工のほとんどが石川県から移住した陶画工であったといわれ、明治30年頃には数百人になったといわれます。

左の画像は北儀右衛門製の製品「金彩色絵西王母に花卉文瓶」(神戸市立博物館所蔵)です。北儀右衛門は、明治15年11月刊行の『豪商 神兵 湊の魁』に載った挿絵を見ると、九谷焼の看板の文字が英語で書かれた店舗を開き、明治初期から地の利を得て発展した元町通に構えただけあって、九谷焼の販売が順調であったことがわかります。さらに、北儀右衛門の製品の中には、左の画像のように、赤絵と金彩で“西王母”(中国神話の女神)が描かれた一対の花瓶が、明治18年(1885)に東京で開催された共進会に出品し高く評価されました。その時の「共進会審査報告 陶器之部」には「神戸元町の北儀右衛門という人物が、九谷から絵付師を雇い入れ、九谷焼に金彩赤絵を施して出品した」という記載されています。そしてこの花瓶の高台内側には、明治九谷によく見られる、赤で銘が書き入れられ、この花瓶には「神戸/北造」と書かれ、「北」の下には「..」のようなマークが付されています。北儀右衛門の多くの製品には「神戸北造」の銘がありますが、「..」のようなマークは、北儀右衛門の開いた「加賀九谷焼売捌所」の軒先にかけられた暖簾にあった「北」の下の「..」が由来であるといわれます。

横浜焼、横浜九谷、そして神戸九谷の素地について述べてきましたが、そのほとんどは国産の素地を使った中で、北儀右衛門の製品には欧州産の素地を使ったものがあります。その素地は、「雪のような白い生地、しっとりとなじむシェイプは、一途なこだわりがあるボヘミア磁器」と宣伝したオーストリアのメーカーのものでした。

 

 

 

また、こうした欧州産の素地を使った例は、横浜焼、横浜九谷においても散見され、井村彦次郎の製品に、また明治8年(1875)に横浜に支店を設けた松原勘四郎商店の製品に見られます。左の画像の松原製の製品は、天保13年(1842)にフランス・リモージュ地方に生産工場を開き「リモージュ磁器の黄金時代」を築いたといわれる、アビランド社製の素地を使っています。

重くて壊れやすい素地を高い輸送費をかけまで神戸や横浜に運び絵付を行った背景には、未だ石川県の素地の品質が欧州産に比べ劣っていたことというよりも、前述の「雪のような白い素地、しっとりと手に馴染む形」の素地に横浜焼や九谷風の絵付をするように求めた顧客から要望されたと考えられます。これは、毎日手にして目にする食器には表面の手触り感や欧米特有の器形が欧米人から好まれ、真っ白な素地が選ばれたからと思われます。こうして、横浜や神戸の陶器商人は、外国人の食生活を見ているうちに、素地と器形に合わせて絵付するというデザイン力を重視し、一部は欧州から素地を運んでまで、多種多様な製品を製作販売するようになったと考えられます。

九谷焼の銘3.明治九谷の銘

明治九谷の銘は、すでに再興九谷で見られた角「福」の他に、製品名あるいは産地名の「九谷」、窯元名、陶画工名などに加えて、新たに、陶画工名の屋号という形を変え、あるいは、国号、堂号などが加わりました。

銘「九谷」

「九谷焼」という呼称が文政年間に生まれ、吉田屋窯を収めた箱に「九谷焼」と書かれ、同時に、製品そのものに銘「九谷」が書き入れられたことが始まり、それ以降、当時の諸窯に拡がりました。その後、窯元から独立した陶画工が自身の名前を製品に書き入れられました。これは、有田焼の生産方式と異なり、九谷焼の生産方式が素地窯とそれから独立した陶画工との分業が進んだことによると考えられます。

明治時代に入ると、陶画工の数も増え、銘「九谷」と陶画工の名前または屋号との組み合わせ、輸出九谷は国号など組み合わせられました。

例;「九谷/雪花」「九谷/雪山製」「九谷/秋山製」「九谷/相鮮亭造」「九谷/加長軒製」「九谷/開匠軒甚作製」「九谷/上出」「九谷製/亀田画」「於九谷/土井製/高田画」「九谷北山」「九谷/為吉」(二重角内)

銘「山号」

日本人にとって山は特別な存在でした。それは、山が多い日本では山を神の世界だと考え、日本人にとって古くから山が信仰の対象となり、生活のための非常に重要な存在であったからでした。古から、加賀の人々の間では白山が愛される山となり、また漁民や北前船の船頭は信仰の山であり、行先の標識のような存在であったので、自然に白山が崇高な山と見られ、明治時代の多くの陶画工が自分の屋号として「山号」を取り入れました。

例;「雪山」「陶山」「友山」「北山」「清山」「竜山」「逸山」「山月」「嶺山」「旭山」「嶺山」「美山」「江山」「喜山」「椿山」「卯山」「生山」「泰山」

銘「堂号」

堂号とは自分の家や書斎につける屋号でしたが、書道家、作家、茶人、画家、俳人、芸能人などにも多くの堂号があります。明治時代の陶画工の中には、自分の工房、絵付窯、陶磁器商店に「堂号」をつけました。

例;「雪山堂」「松齢/陶山/堂印」「三布堂製」「友山堂製」「北山堂」「松鶴堂」「九徑堂」「松雲堂」「北玉堂聚精」「芙蓉堂」

銘「国号」

「日本」に「大」を冠する慣習は古代から国内向けの名称として存在し、江戸末期になって「大日本」が外交文書に日本国の「国号」の一つとして使われましたように、対外的な国号に「大」を冠してこの号が使用されました。九谷焼に「国号」が使われたのは、万国博覧会に出品した作品に始まり、輸出九谷に多く見られました。

例;「大日本九谷/雪山堂製之」「大日本九谷/飯山製之」「大日本/九谷製/中埜画」

旧い国号「加賀」

加賀藩が江戸時代に加賀、能登、越中の3国の大半を領地として有し、そこで九谷焼が発祥した歴史を持つ石川県民は九谷焼を誇りに思い、明治九谷に旧い国名の“加賀”を国号として使ったと考えられます。加賀国に絡んでその中心地 金沢の旧い呼称「金城」も一部に見られます。

例;「金城/友山」「加賀国/綿野製/竹内画」「金城/竜山」

銘「署名」

九谷細字の書き手が文章(漢詩文・平仮名文)の末尾に署名として屋号を、器の内側の文章の末尾に書き入れました。

例;「九谷・清山書」「九谷/鏑木製・北山書」

特異な銘

「相鮮亭」「彩雲楼」「鬼仏」

その他の銘

窯元の銘;「九谷阿部製」「金城岩花造(共書き)」

陶器商人の銘;「九谷/陶源」「大日本/加賀国/九谷/打田製」「九谷/円中製/逸山画」「織田製」「九谷/鏑木」「九谷/酢屋製」「九谷/谷口製」「大日本/松原製」「加賀国/綿野製」「綿安」「於九谷綿平製」「綿谷製」

転写の銘;「大明成化年製」(矢口製の染付)「奇玉宝鼎之珍」(大聖寺伊万里)

1.明代磁器の銘と古九谷の銘

2.再興九谷の銘

九谷焼の銘 2.再興九谷の銘

江戸時代の末期に加賀藩や大聖寺藩で興った諸窯では、それぞれの目的や背景から築かれて窯元特有の製品が造られました。したがって、それぞれの銘も、古九谷(青手)の再興を目指した窯では角「福」などが多く見られた他に、窯のあった場所の名、窯主の名の銘に、製作年など加わった銘があります。やがて、絵付業を生業とした九谷庄三のような陶画工が現れると、ブランド品であることとか名工であることを示した銘が初めて書き入れるようになって、明治時代に引き継がれました。

1.春日山窯の銘

春日山窯では呉須赤絵写し、交趾写し、青磁、染付の鉢・皿・向付・徳利などの日用品を主に造り、九谷焼の歴史の中で初めて「金城製」「春日山」「金城春日山」「金府造」「金城文化年製」など、窯の築かれた地名や年代が銘として書き入れられ、それらの一部には二重角の中に入ったものがあります。

こうした銘が加賀藩から指示されたのか、京から招かれた青木木米が提示したのか不明ですが、春日山窯が加賀藩の藩窯であり、藩の中心地であった金沢を意味する「金城」や「金府」が銘として書き入れられたのは当然でした。また、木米が京の粟田口で制作した作品が粟田口焼と呼ばれたことから、加賀藩の中心地“金沢”で製作された製品であり、“春日山”の地で焼かれたことから、産地名が銘に取り入れられたと考えられます。

そして、京焼に「製作年代」を銘にしたものが残っているか不明ですが、製品の一部に製作年代を示す銘「金城文化年製」があるのは古九谷の小皿に書き入れられた「承應弐歳」と同様な意味合いが含まれていると思われます。

2.若杉窯の銘

若杉窯の製品は多岐にわたり、染付による鉢、皿、壺、甕、瓶、向付、香合、火入れなどの生活雑器に加え、赤絵細描の鉢や瓶、青手風の皿や瓶、伊万里風の鉢や瓶など様式も画風も多岐にわたりました。こうした製品の中で藩向けと思われる製品には銘が書き入れられ、二重角に「若」が入ったもの、その書き方が反対の左「若」(画像のとおり)、数少ないものの「若杉山」「加陽若杉」、製作者の三田勇次郎を表わす「勇」などがあります。恐らく藩向けでない生活雑器は無銘であったと考えられます。

以上のほか、窯の物原から、春日山窯で見られた製作年代の銘や製作者名が書かれた陶磁片が見つかっています。例えば「天保七年」「天保八年」などの書き込まれた天保年代製の色絵や染付の碗片、「天保十年初秋 願主 北市屋兼吉」銘のある染付瓶子(徳利か)片、「文政七年 橋本屋」銘の陶片、「天保三歳 施主 橋本屋 安右衛門」銘のある香炉片などが発見されています。このような銘が何を意味しているかは不祥ですが、考えられることは、「願主 北市屋兼吉」は北市屋兼吉から注文があったことを、また「橋本屋安右衛門」は窯の管理者(窯元名)が誰であるかを示そうとしたと見られ、こした陶片からは本来の銘の書き入れ方が試みられたことがわかります。

3.小野窯の銘

小野窯の製品は赤絵細描が主であり、赤に黄緑・緑・紺青・紫などを加えたもの、金彩を施したものがあり、その赤で黒味をおびていて独特の色合いを示します。画風は南画風であり、宮本屋窯や佐野窯が盛んであった時期と重なり、その繊細優美な趣から“姫九谷”の名で呼ばれ、小野窯がひと際高く評価されました。

このような製品には「庄七」(庄三の幼名)銘のあるもの、また二重角に「小野」の窯元名が書き入れられ、差別化を図ろうとしたように見られます。また、吉田屋窯が閉じられた後、なおも、粟生屋源右衛門・松屋菊三郎が古九谷青手の再現を追い求めていた時期の製品と考えられる「小野」銘の入った古九谷風青手の製品があったことも興味深いことです。やはり、銘入りの製品はその窯への高い評価を表わしたと見られ、この窯が素地窯と変容すると、無銘となったことの意味がわかります。

4.民山窯の銘

民山窯は、文政5年、加賀藩士 武田秀平が、春日山にあった本窯(春日山窯が遺したものと考えられる)で焼かれた素地に金沢の自宅に築いた絵付窯で越中屋平吉、鍋屋吉兵衛、任田屋徳次らの陶画工に絵付させ、その製品は天保年間(1830~1843)に金沢だけでなく近隣諸国にたくさん販売され、加賀藩の江戸藩邸跡からもこの窯の碗が発掘されたように高い評価を受けました。

こうした窯の製品に武田秀平の号である「民山」が銘として書き入れ、個人の号が使われたのは九谷焼では初めてでした。一方で、角「福」が書き入れられた製品がないといわれます。それは、角「福」が書き入れられた若杉窯の製品も藩内で使われ、藩外でも角「福」が書き入れられた肥前の製品が販売されていたので、それらと差別化を図ったと考えられます。弘化元年に秀平が没すると、この窯が閉ざされたことから、銘「民山」の製品が信用力のある製品であったことがわかります。

5.吉田屋窯の銘

吉田屋窯は文政7年に古九谷を思慕し続けた大聖寺の豪商 吉田屋伝右衛門によって築かれた窯元で、古九谷青手への伝右衛門の強い思入れから、江沼郡九谷村の九谷古窯(古九谷を焼いた窯)の脇で始まりましたが、1年後に江沼郡山代村にその窯を移転してから天保2年までの約8年間に、粟生屋源右衛門、本多清兵衛(本多貞吉の養子)らが尽力し、素地、絵の具、筆致に吉田屋窯独自の“新しさ”を加えた製品を造りました。その多種多様な製品には古九谷同様に二重角または一重角に入った「福」の銘が思入れをもって書き込まれたことから、当時から、古九谷青手が再現されたと評判となりました。

この銘「福」と共に特記されることは、毎年のように“年代銘”が書き込まれた製品が何点か造られたことです。創業記念を意味したとは考えられず、改良を加えて操業し続けたことを製品そのものでもって遺すためであったと見えます。

そして、“年代銘”と共に”九谷”が書き込まれた製品が遺っていることから、再興九谷の諸窯の中で吉田屋窯が文政年間に銘「九谷」を銘文の中であっても、初めて使ったことと合わせて、箱書きに書かれた「九谷焼」からも、当時、吉田屋窯の製品がそう呼ばれていたことがわかりました。

6.宮本屋窯の銘

宮本屋窯は、吉田屋窯の跡を受け継いで、天保3年から安政6年までの約27年間、独自の製陶を続けました。この窯では、吉田屋窯で見られなかった白色でやや青みを帯びた素地に、陶画工の飯田屋八郎右衛門が赤絵細密画を全面に絵付したことから、その製品を八郎右衛門の名前からとって「八郎」あるいは「八郎手」と呼ばれ、人気を博しました。

しかしながら、そのような評判の製品であっても、当時、いまだ陶画工の名前が銘に書き入れることがなく、代わりに、製品の陶画工が文書に書き残したといわれます。ただ、そうした文書はほとんど残っていないのですが、八郎右衛門は「八郎墨譜」を書き遺しました。その墨譜は一般的な絵手本と異なり、八郎右衛門が製作した製品ごとに図案、文様などが克明に記載されている上、製品に書き入れた銘についても記載されているといわれます。

それによると、銘には一重角または二重角「福」の銘が多く、その他に楕円の中に入った「九谷」、文字のみの「九谷」などが記載されています。これからも、吉田屋窯以来、銘「九谷」が継承され、当時の再興九谷に普及したと考えられます。ただ、墨譜には、吉田屋窯にあったような“年代銘”とは異なり、ほぼ1年前に製作された製品について記載があり、中には“記載した年”も書かれ、しかも順番に綴じられたと見られるので、製品ごとに製作年が推定できるといわれます。

7.佐野窯の銘

佐野窯を開いた斉田伊三郎の作品として伝世されている製品には、当時、すでに九谷焼の銘として広まりつつあった二重角に「福」のほかに、二重角に「九谷」の中を赤や緑で塗り潰した銘が書き入れられました。ですから、伊三郎の窯から独立する前の高弟も師である伊三郎の銘の入れ方を倣ったように見られます。

同時代の九谷庄三のように「九谷」と自身の名前と組み合わせた銘の入った伊三郎の作品はいまだ見つからないといわれます。この理由として考えられるのは、伊三郎の陶歴との関係があると考えられます。伊三郎は20数年間にわたり、主として製陶の技術について研鑽を重ねました。先ず、16歳のとき、若杉窯で本多貞吉から製陶を学び、21歳から5年間ほどは山代の豆腐屋市兵衛のところで南京写の染付の技法を習得してから、再び若杉窯に戻り三田勇次郎から赤絵を学びましたが、勇次郎が若杉窯から去ると、再び、遊学を始め、4年間ほど京の清水焼の名工 水越与三平衛のもとで製陶と絵付の技法を、さらに、肥前の窯元 宇右衛門のところで伊万里の製陶、築窯、焼成法を究めてから、諸国の陶業地を歴遊して、天保元年、36歳のとき、郷里の佐野村に戻ってきました。

ところが、伊三郎が帰郷するや、若杉窯の橋本屋安兵衛から招かれ、若杉窯の拡充を頼まれ、同時に小野窯でも製陶、絵付の技術向上に携わりました。小野窯の赤絵に伊三郎の画風に似たものが見られるのはこのときのものと考えられます。その後、伊三郎は、天保6年、40歳のときになってから独立し、佐野村で絵付窯と陶画塾を開いて、佐野赤絵の基となった絵付技法(赤絵金彩の二度焼)の開発、図案や文様(百老図、網手)の考案に加え、陶画塾勢の塾生に赤絵の技法を教え、明治元年に亡くなるまでに多くの門弟を育成しました。伊三郎は陶画工としての作品を多く遺すことよりも、佐野赤絵の開発者であり指導者であることに徹したため、同時代の九谷庄三のように自身の銘のある作品を遺すことがなかったと考えられます。

8.九谷庄三と庄三工房の銘

九谷庄三は、天保3年、17歳のとき、同時代の斉田伊三郎とは正反対に、小野窯で絵付の才能を発揮し、早くも銘「庄七」(庄三の幼名)のある赤絵のほか、庄三の手によるものと思われる赤絵を次々に製作しました(後世、この赤絵を“姫九谷”と呼ばれました)。

その後、庄三は加賀各地の窯を遊学したのち、天保12年、26歳のとき、寺井村に戻り、絵付工房と絵付窯を開き、40余年に及ぶ絵付業を開始しました。庄三の絵付業は素地造りとの分業を図って大量生産を可能とさせ、庄三は最盛期には200人とも300人ともいわれた大勢の工人を抱える工房の経営者となりました。そこで、工房を代表するために製品に「九谷/庄三」(/は二行書きを意味する)を書き入れる必要が生じたと考えられます。

九谷庄三の銘を追って見ると、初め「庄七」または角「福」に「庄七」の組み合わせから始まり、角「福」に「庄三」になり、さらに角「九谷」に「庄三(小文字)」へと変化しました。すでに、文政年間に九谷焼という呼称が吉田屋窯の製品に使われ、銘文の中にも「九谷」もあったことから、庄三工房でも“九谷焼を作った庄三という意味でこの形式を取り入れたと考えられます。

その後、明治に入り苗字を名乗ることが許されると、庄三は姓名を“九谷”と名乗り、姓名と同じ一行書きの銘「九谷庄三」を一時使いましたが、庄三工房の製品の銘に「九谷/庄三」を書き続けました。庄三が製品を大量に売ることができたのは、この銘が製品に“ブランド力”をつけさせ、国内外から人気を博したといわれます。こうして、明治九谷の陶画工の多くが「九谷」と名前または屋号を組み合わせたことから、銘「九谷/○○」の形式が広がったと考えられます。

ただ、庄三工房の使った銘の持つブランド力が流用されることになり、今でも銘「九谷/庄三」の製品の真贋が問題になっています。工房で製作された製品は九谷庄三とその高弟によって監修され「庄三風」の画質が維持されていたので、高弟が書き入れた銘であっても“九谷庄三(工房)が制作したもの”と見なされたといわれます。かえって、それが庄三の生前から、銘「庄三」の書き入れられた贋作が横行することになり、さらに、庄三が明治16年に歿して工房が自然消滅したことに乗じて、工房にいた一部の工人や一部の陶画工も銘「九谷/庄三」を入れた製品を造りだしたため、銘「九谷/庄三」の模倣品がたくさん出回ることになったと考えられます。

9.連代寺窯の銘

蓮代寺窯は古九谷の再現のために粟生屋源右衛門と松屋菊三郎によって築かれました。菊三郎は13歳のころ、源右衛門に師事して製陶を学び、大いに薫陶を受けましたが、その後も各地で修業し製陶の経験を積んで故郷に戻ると、すでに吉田屋窯が閉じられて古九谷風青手が途絶えていたため、その再現に向け、吉田屋窯から戻っていた源右衛門が陶器を焼いていた窯を源右衛門から指導を受けながら、磁器の素地窯として改造し、絵の具についても学びました。

二人はこれまで再興九谷の諸窯でできなかった古九谷のような白磁の素地に九谷五彩で絵付することを目指しました。次第に白磁の素地に改良され、九谷五彩で絵付された呉須赤絵風の製品、古九谷写しなどが造られるようになりました。そうした製品には古九谷の再現銘に倣って二重角に「福」の銘を書き入れました。中には判読できない字の銘(「寫」のように見みる)のものがありますが、古九谷の写しを意味したと見られます。

10.松山窯の銘

松山窯は、嘉永元年に、江沼郡松山村(現在の加賀市松山町)に大聖寺藩の藩窯として築かれ、“松山の御上窯”と呼ばれました。小松の蓮代寺窯で古九谷の再現の取り組んでいた粟生屋源右衛門と松屋菊三郎によって、当初は藩の贈答品のために古九谷青手風の製品を造りました。二人は藩内の九谷村・吸坂村・勅使村などの陶石、陶土を原料とした素地を造り、それに源右衛門や菊三郎の手によって古九谷青手風の絵付がされ、銘も二重角に「福」が踏襲されました。

しかしながら、藩が山代の九谷本窯(宮本屋窯を買収してできた窯)に財政支援を集中したため、松山窯の保護がなくなると、この窯は民営に移り、大蔵寿楽、浜坂清五郎、西出吉平、北出宇与門、山本庄右衛門らの陶工によって良質の素地が造られ、陶画工には永楽和全、中野忠次らが迎えられて作陶が続けられました。その当時の画風を取り入れた製品が明治5年頃まで造られ、当時すてに普及していた「九谷」「九谷製」の銘を使い、さらに「永楽」「大日本九谷製」などの銘が加わりました。

11.九谷本窯の銘

九谷本窯は、万延元年、大聖寺藩が藩士 塚谷竹軒、浅井一毫を起用して藩が直営する窯とするために元宮本屋窯を再利用した窯です。江沼地方の風土には吉田屋窯、宮本屋窯などに見られる、創意に富むものを創り出した気風が遺り、そこで育まれた熟練工がいました。こうしたことに着眼して、九谷焼を殖産興業の中心にさせようとした政策が施行されました。窯名も九谷焼の原点であることを意味した“九谷本窯”と名付けました。

藩はこの窯の経営を早く軌道にのせるため、慶応元年、京の永楽和全とその義弟 西村宗三郎が招かれました。和全は3ケ年(契約期間)の間に、素地を精良なものに改良し、形状、絵付などに改善と工夫を加えた製品を造り、独自の味わいある新しい画風を加賀の陶磁器に吹き込んだといわれます。こうしたことから、この窯は“永楽窯”と呼ばれ、製品の評判も上がりました。

この窯の製品には、「於九谷永楽造」「於春日山善五郎造」「於春日山永楽造」など、“和全”の名と“地名”を取り入れた銘が多く見られました。他に「春日山」「永楽」などの銘印を捺したものもありますが、この「春日山」は金沢の春日山窯を意味するのではなく、山代温泉にある春日山のことを指しました。

1.明代磁器の銘と古九谷の銘

3.明治九谷の銘

九谷焼の銘 1.明代磁器の銘と古九谷の銘

1.中国での銘款の発展

明代以前の宋・元の時代にも正式な官窯があったものの、官府から指定された民窯が官用製品に“官”“供御”“御用”の字を彫りつけ、民生品と区別するだけの記号のようなもの(識款という)であったので、これは銘ではないといわれます。

その後、明代に官窯で銘が初めて使われたのが永楽官窯で、四文字の染付や銘印の“永楽年製”でした。ただ、その銘文“永楽年製”が器の内部中央の花模様の中に紛れて書き入れてあるなど、銘であることを隠しそうとしたと考えられます。ですから、永楽官窯製とされる磁器の底部や内部中心に堂々と書かれた“永楽年製”は後世の工人が写したといわれます。

次に、宣徳官窯になると、僅か10年の間に、“銘文を入れない”→“記号のような銘文を入れる”→“「宣徳年製」の銘文を入れる”、といった変遷がありました。それでも、銘を記した場所がいまだ一定してなかったので、宣徳官窯では銘文の雛型ができた段階であったといえます。また、銘文“大明宣徳年製”を壺の肩部に染付で書いた理由は宣徳官窯で製作された壺の底部が砂底であったためであって、器の表面に書き込まれていても、それは銘と認められています。

さらに、官窯が移っていくと、一国の陶磁器は一つの窯“景徳鎮”に生産が委託されたので、その銘は窯元名や産地名よりも「大明万暦」「大清乾隆」などの製作年代や聖人賢人を示す銘が重視されたといわれます。こうして、成化官窯は宣徳官窯での銘の形式を継承し、銘の様式が統一されました。印章式銘、銘を書くための“専人専任”の制度が生まれ、この制度は特定な時期と製品を除いて清末まで景徳鎮官窯で継承され続けました。

2.伊万里の銘

日本での銘は、室町時代の備前焼、桃山時代以降の楽焼や京焼などの陶器に始まり、京焼では“銘印”が発達し、京焼の祖といわれる仁清は堂々たる“銘印”を使いました。

一方、磁器の方では、江戸時代の初め、鍋島藩が有田泉山の陶石を使って明代の磁器を模倣したことから、多くの銘も明代磁器の銘をそのまま写しました。当時、泉山で製作された磁器には“有田”とか“鍋島”とかいった制作した窯元名や地名ではなく、明代磁器の銘「大明成化年製」「大明嘉靖年製」などの年号や、それらの変化した「太明年製」、そして一般的な吉祥文であった「富貴長春」「福」などを書き入れました。

ですから、江戸時代の肥前磁器には、柿右衛門窯や今右衛門窯のように、陶画工、窯元、製作年代などがわかる銘がほとんどなく、明清代の銘をそのまま写すということが明治初期まで続けました。この理由は、明清代の官窯と同じく、鍋島藩が、有田町とその周辺の保護地域で素地窯と16軒の赤絵屋(有田における上絵付け専門の業者のこと)に分業させて、技術流出や製品の密輸を防止するため、一か所の窯元で一貫生産することを行わなかったので、製造窯元とか製作者の銘を書き入れる必要がなかったからと考えられます。

3.古九谷の銘

加賀藩の支藩である大聖寺藩は江沼郡九谷村(現、加賀市九谷町)の九谷古窯で中国磁器の染付や色絵磁器に倣って古九谷を製作しました。当時の武家茶人が明代磁器に憧れていたように、大聖寺藩で製作された古九谷にも明代磁器の銘「五郎太夫」(五郎太夫は染付磁器をつくった陶工名)「大明成化年製」「福」が書き込まれ、その他にも「祐」や不可解な篆書文字がありました。

銘の中で最も多い銘は一重角または二重角の中に書かれた「福」で、その字体は楷書・篆書・隷書、あるいは変形の字体などで書かれ、字の色が黒呉須、赤、染付などで書かれています。さらに、そうした銘の上を黄彩や緑彩で塗り埋められたものもあります。このような古九谷の銘は、数十年の間に入れ替わった複数人の陶画工(藩士であったといわれます)によって書き入れられたと考えられ、職人が決められたとおり銘を書き入れた肥前磁器と異なり、古九谷の陶画工の学識や個性が画風と合わせて銘にも表れたといわれます。

2.再興九谷の銘

3.明治九谷の銘

 

九谷焼の銘

「銘款(めいかん)」とは陶磁器に見られる製作者、製作窯元などの銘のことを意味し、通常、銘と呼ばれます。それは陶磁器の発展に伴って生まれたといわれ、中国では宋元の時代にその原型が生まれ、明代に「大明万暦」「大清乾隆」の銘の形式が完結しました。日本では陶器に始まり、仁清の堂々たる“銘印”が生まれ、伊万里で中国磁器の銘に倣って「大明成化年製」や「福」が器に書き入れられました。

一方、古九谷が明代磁器の銘に倣って多くは「福」を書き入れましたが、江戸末期の再興九谷が製作窯元、産地などの名が高台内に書き入れられ、さらに、明治になると、「大日本」のような国名や「九谷」「加賀」のような産地名、それらに製作者名(屋号)を加えた銘が書き入れられるようになりました。伊万里の銘と、再興九谷以降の銘との違いはそれぞれの生産形態の違いから生まれたと考えられます。

1.明代磁器の銘と古九谷の銘

明代に官窯での銘が初めて使われ、それに倣った伊万里や古九谷では主に角「福」が高台の中に書き入れられました (解説に続く)

2.再興九谷の銘

江戸時代の末期に加賀藩や大聖寺藩で興った諸窯は、それぞれ異なる目的や背景から築かれたので、窯元特有の製品が造られ、したがって、銘にもそれぞれに特色の銘が見られます (解説に続く)

3.明治九谷の銘

明治九谷の銘は、すでに再興九谷で見られた角「福」、産地名、窯元名、陶画工名などに加えて、新たに、陶画工名が屋号という形を変え、あるいは、国号、堂号などが加わりました (解説に続く)