明治時代に横浜港の近くで焼かれた横浜焼がどういう磁器製品であったかを物語るものとして、横浜焼のリーダー的存在であった陶器商人 井村彦次郎が横浜港の外国商館(明治政府より特許を受けた日本人の商人のみが外国との交易をおこなった商業施設)向けに出した広告の中で横浜焼を「薩摩風、京都風、九谷風、瀬戸風など、さまざまなスタイルで絵付された製品」と説明しています。そして、この横浜焼が欧米へほとんどが輸出されたので、近年、里帰りした横浜焼のコレクションを中心に研究が進むにつれ、明治九谷との関係もわかってきました。
横浜焼の特色
上述したように、横浜焼が当時の輸出磁器の主流であった明治九谷や薩摩焼の画風に、東京焼が取り入れた墨彩(水墨画の墨特有の力強さに水彩の美しさが加わり華やかな仕上りとなった絵画)あるいは粉彩(洋絵具を用いてグラデーションや絵画的な表現をした絵画)などの絵付技法を融合させて、横浜焼という新たものに組み替えられた磁器であったと考えられます。
それに加え、横浜焼が温雅で淡く描いた日本画のような雰囲気を醸し出したのは、横浜焼の陶器商人や陶画工が、万国博覧会事務局が編纂した「温知図録」からモチーフを多く得たからと見られます。この図録は事務局の納富介次郎が中心となって編纂されたもので、工芸品の日本的デザインを各地の産地に奨励するためのもので、この図録を参照して、横浜焼は淡い色彩と多彩な洋絵の具、墨彩や粉彩の技法、奥行感を出す背景の描き方などを取り入れて、日本画を磁器の上に絵付したようなものに仕上がったと考えられます。
ですから、井村彦次郎の製品にも、日本画の墨彩によるものもあれば、西洋画の粉彩によるものが見られます。変化する欧米人の嗜好に合わせて、白素地の上では赤や金などによる装飾的な絵付が抑えられ、墨彩で描かれた風景画や花鳥画が絵付され、あるいは風景画には奥行き感のあるスケッチ画のような絵付が見られます。
また、他の陶器商人の製品にも、日本の風俗や花鳥などを題材に、外国人の嗜好を映しとった瀟洒で繊細な絵付が見られ、明治九谷や薩摩焼のように随所に金を多用した豪華な絵付というよりも細部だけに金彩を効果的に取り入れています。また、「鳥獣人物戯画」やおとぎ話から飛び出て来たような、ユーモラスさを誘う亀、梟、兎、蛙などのデザインも外国人の嗜好であり、明治九谷や薩摩焼(SATSUMA)を見飽きていた外国人の目にはより日本的と映ったと思われます。
横浜焼の製作
開港されたばかりの横浜港の近隣には、磁器の原料の産地があったわけでなく、もちろん、瓦や陶器を焼く窯すらなかったところでしたので、横浜港に進出した陶器商人らは瀬戸、有田から素地を購入し、有田焼、京焼、九谷焼、瀬戸焼などの顔料を買い入れて港の近くで絵付だけをするという方式で横浜焼を製作しました。彼らは明治九谷のように産地から輸送するよりも輸送費、破損のリスクなどが軽減でき、また変化する嗜好やクレームにも即座に対応できました。この方式には経済合理的メリットがあり、今でいう“地産地消”の生産方式でした。
特に、“瀬戸素地”(瀬戸で製作された磁器用の素地)を主に使ったことが、横浜焼の発展につながったと考えられます。明治6年(1873)のウィーン万博に参加するため博覧会事務局附属磁器製造所(後に東京絵付で有名となった東京錦窯となる)が開設され、全国の工芸品の産地に対し製品製作の手引書(素地の仕様や図案など)を配布して万博への出品物を管理するとともに、素地窯を持たなかった当の磁器製造所では厳選された有田、瀬戸などの素地に名工が絵付した作品を万博に出品し成功をおさめました。
そこで、瀬戸は有田より東京・横浜に近く、輸送費が少なく済んだことに加え、技術力のある産地でしたので、磁器製造所の成功を見て横浜焼でも多く使用されるようになったと考えられます。瀬戸の技術力の高さを示す事例として、江戸時代末期に初めてコーヒーカップを製作した時、瀬戸では伏焼(ふせやき 器物の口辺を下にして焼く方法)という焼成を考案し、窯の中で起こった取っ手の重みによるカップの歪みを解決しました。さらに、明治6年(1873)に開催されたウィーン万博に派遣された納富介次郎が持ち帰った石膏型による鋳込み成形の技法を九谷焼より10年以上も早くに導入し、均一な素地を製作するなど、瀬戸素地の品質の高さによってエッグシェルタイプ(卵殻手)の製品ができたといわれます。
横浜焼を興した陶器商人
明治政府が明治初期に万国博覧会で高い評価を受けた国内各地の陶磁器の輸出を奨励したことで九谷焼、有田焼などの伝統的な産地では“超絶技巧の美術工芸品”の輸出が盛んに行われました。一方で、横浜港の外国人居住区の商館からは外国人の嗜好に合わせたテーブルウエアが買い求められました。
そこで、横浜港近くの日本人街に外国向けの磁器製品を取り扱う陶器商人が集まるようになり、井村彦次郎のように大勢の陶画工を抱えた絵付工場を建てるものも現れました。今では想像もつかないほど、横浜焼や九谷焼などの磁器製品が横浜港から輸出されたことから、当時、横浜港が磁器製品の一大産地として外国に知られるようになったのも陶器商人や陶画工が精力的に活動したからと考えられます。
横浜港に進出した横浜焼の陶器商人として、明治4年(1871)に有田焼の田代屋(田代助作)が開店したのを皮切りに、明治8年(1875)に井村彦次郎(松下屋)、明治18年(18875)に加藤湖三郎(日光商会)が進出しました。明治20年代に陶器商人の数が急増し、名古屋絵付の滝藤萬次郎、山下民松、北川喜作、川戸房次郎、中村鎗次郎、塩谷加太郎らが活躍し、さらに、明治30年代には高坂藤右衛門、島田金次郎らの陶器商人が登場し、高山一二、上木堂(辻長右衛門)のように陶器商人であり絵付業を営むものまで現れました。
横浜に進出した明治九谷の陶器商人
一方で、横浜港の陶器商人仲間に加わった明治九谷の陶器商人には、明治8年(1875)に松勘商店が初めて進出しました。少し遅れて、綿野吉二が明治13年(1880)に神戸から移ってきました。綿野吉二は明治10年(1877)に父 綿野源右衛門の跡を継ぎ、明治12年(1879)にパリに九谷焼の直輸出を試みるなど、横浜港からの輸出を有望視して進出したとみられます。他には、明治15年(1882)に綿谷平兵衛が、そして明治18年(1885)に織田甚三商店と綿野安兵衛が支店を構えました。織田と綿野(安)はすでに万博で高く評価されていた横浜焼の“エッグシェル“の素地に幾何学的な模様を描いた食器を扱いました。
特に注目されるべき陶器商人は綿野吉二で、彼は買弁(外国の貿易業者の仲立ちをする者)を通さず、直輸出をすることを実現させました。後に第一高等学校(東京大学)校長となった加賀藩出身の今村有隣の留学経験や西洋の経済知識を生かして、横浜港からフランスへの直輸出の道を開くとともに、パリを拠点とするヨーロッパでの拡販に努めました。また、京浜地区の同業仲間と共に日本貿易協会を設立し、明治15年(1882)には陶商同盟の頭取となり、九谷焼のみならず、横浜焼の輸出にも大きく貢献しました。
明治九谷との関連
横浜九谷;石川県から進出した陶器商人の多くは、高い評価を受けた横浜焼独特の画風(墨彩、粉彩など)を取り入れて明治九谷を石川県あるいは横浜で製作し、それに「九谷」銘を書き入れて輸出しました。こうしたことから、外国商館の商人はそうした明治九谷を“横浜九谷”と呼んだといわれます(薩摩焼も“横浜薩摩”といわれました)。綿野吉二が横浜焼の陶器商人、陶画工と協力して双方の画質を高めることに努めたので、次第に九谷焼が横浜焼の一部ととらえられるようになったことが考えらます。外国商館の商人も“横浜九谷”に明治九谷との融合があったことがわかったようです。
田代屋(田代助作);田代屋は有田焼の陶器商人 田代紋左衛門が万延元年(1860)から有田焼輸出の利権を専有して有田焼の貿易商の鑑札を受け輸出を始めましたが、明治4年(1871)に長男の田代助作が横浜港で田代屋を開店しました。田代助作も父が三川内(長崎県)の品質高い素地に有田で絵付をした製品を輸出したと同様に、当時、横浜港で輸出が始まっていた明治九谷を目の当たりにして、当初は有田か三川内の素地を使ったものの、やがて他の陶器商人と同様に“瀬戸素地”に人気のあった九谷風赤絵を絵付して井村彦次郎の製品や横浜九谷より廉価な製品を製作し輸出し、明治九谷と同様に好評を得ました。
滝藤萬二郎;名古屋絵付の陶器商人 滝藤萬二郎は横浜港に進出し、“瀬戸素地”に九谷風の絵付を施した金襴手で名を馳せました。亀甲文、花文様を細密に描き、盛り上げの技法でレリーフのように浮かび上がった文様を得意としました。
山本祥雲;山本祥雲は、慶応3年(1867)武蔵国(現、神奈川県)橘樹郡(現、川崎市)に生まれ、17才のとき横浜に出て桑原湖山から絵画を学び、やがて絵付業を始めました。井村彦次郎の絵付工場で陶画工としても活躍しました。また、明治27年(1894)、27歳のとき、明治九谷の名工といわれるようになる島崎玉香と共に横浜陶器画奨励会にて優等賞を受賞しましたことから、島崎玉香との親交が始まりました。翌年、山本祥雲は東京に出て、荒木寛畝(幕末から明治時代に活躍した絵師で、濃密な色彩と細密な描写による花鳥画を得意とした)、松本楓湖(幕末から大正時代に活躍した絵師で、濃彩華麗な花鳥画、多彩な歴史画、口絵を得意とした)に師事し、花鳥山水の日本画家として作品を残しました。晩年、石川県能美市へ移住して、初代 武腰泰山、島崎玉香らと交流し、制作活動を続け、また門弟もいたといわれます。島崎玉香との交流によって双方の作品には影響し合うところがあったと考えられています。
高山一二;高山一二は、金沢に生まれで、荒山彌惣次の門弟となり絵画を学び、18才になって東京で絵付業を始め、その後、横浜焼の井村彦次郎のところに移りました。井村の製品に「高山画」銘のスープ入れがあり、それには八郎手の赤絵金襴手の花鳥画が描かれ、他にも九谷風の意匠を絵付したといわれます。